奥平松平家時代
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代わって伊勢国桑名藩より奥平松平忠堯が10万石で入る(なお、この際に桑名藩領の一部が忍藩領になっており、陣屋(大矢知陣屋)が置かれていた)。奥平松平家は元禄期に起こした騒動で知行を減らされていたにもかかわらず、石高に較べて家臣団が多くいたため、藩財政は早くから逼迫していた。このため、入部した翌年の文政7年(1824年)には藩内に重い御用金を課している。 第3代藩主・忠国は所領10万石のうち5万石を上総・安房に移されたため、異国船の警備を任じられた。1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫り、幕府は約8か月の工期で品川砲台(現在のお台場)を完成させると、品川砲台のうち第三台場(現在、台場公園として整備されている)を忍藩に担当させている。これが原因でさらに藩財政は逼迫し、さらに安政2年(1855年)の安政の大地震と安政6年(1859年)の大洪水で領内が大被害を受けて出費が重なり、遂には家臣の俸禄を6分も減らさざるを得なくなった。この頃の奧平松平家の借金は、76万両という途方もないものであった。 慶応3年(1867年)の大政奉還後、第4代藩主・忠誠は幕府と新政府のどちらに与するかを迷い、藩論もそれによって分裂する。翌年、戊辰戦争が起こると前藩主・忠国や家老の鳥居強右衛門商次らの意見もあり藩論は新政府側に与することで決し、忍藩は東北に出陣した。第5代藩主・忠敬は明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で忍藩は廃藩、代わって忍県が設置された。忍県設置3か月後の明治4年(1871年)11月14日の第1次府県統合により、埼玉県に統合された。
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奥平松平家時代
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元禄元年(1688年)、松平忠尚が白河藩主で養父の忠弘より2万石の新田を分知されたことに始まる。忠弘の嫡子・清照の病弱を理由に、天和元年(1681年)に次期白河藩主として迎えられた忠尚だったが、清照の嫡子・忠雅の成長により廃嫡となった。これにより別家として新田2万石を与えられたのである。元禄13年(1700年)、忠雅が出羽山形藩より備後福山藩に転封となったのと同時に、忠尚も陸奥桑折藩に移封となり、廃藩となった。
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