奥平松平家時代とは? わかりやすく解説

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奥平松平家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:05 UTC 版)

忍藩」の記事における「奥平松平家時代」の解説

代わって伊勢国桑名藩より奥平松平忠堯が10万石で入る(なお、この際桑名藩領の一部忍藩になっており、陣屋大矢知陣屋)が置かれていた)。奥平松平家元禄期に起こした騒動知行減らされていたにもかかわらず石高に較べて家臣団多くいたため、藩財政早くから逼迫していた。このため入部した翌年文政7年1824年)には藩内に重い御用金課している。 第3藩主・忠国は所領10万石のうち5万石を上総安房移されたため、異国船の警備任じられた。1853年嘉永6年)、ペリー艦隊来航し幕府開国要求迫り幕府は約8か月工期品川砲台現在のお台場)を完成させると、品川砲台のうち第三台場(現在、台場公園として整備されている)を忍藩担当させている。これが原因でさらに藩財政逼迫し、さらに安政2年1855年)の安政の大地震安政6年1859年)の大洪水領内大被害受けて出費重なり遂に家臣俸禄6分も減らさざるを得なくなったこの頃奧平松平家借金は、76万両という途方もないものであった慶応3年1867年)の大政奉還後、第4代藩主忠誠幕府新政府のどちらに与するかを迷い藩論もそれによって分裂する翌年戊辰戦争が起こると前藩主・忠国や家老鳥居強右衛門商次らの意見もあり藩論新政府側に与することで決し忍藩東北出陣した。第5代藩主・忠敬は明治2年1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年1871年7月廃藩置県忍藩廃藩、代わって忍県設置された。忍県設置3か月後の明治4年1871年11月14日第1次府県統合により、埼玉県統合された。

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奥平松平家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:50 UTC 版)

白河藩」の記事における「奥平松平家時代」の解説

元禄元年1688年)、松平忠尚白河藩主で養父の忠弘より2万石の新田分知されたことに始まる。忠弘の嫡子・清照の病弱理由に、天和元年1681年)に次期白河藩主として迎えられた忠尚だったが、清照の嫡子・忠雅の成長により廃嫡となった。これにより別家として新田2万石を与えられのである元禄13年1700年)、忠雅が出羽山形藩より備後福山藩転封となったのと同時に、忠尚も陸奥桑折藩移封となり、廃藩となった

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