奥平昌能・昌章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 10:06 UTC 版)
松平忠弘と入れ替わりで下野宇都宮藩から奥平昌能が2万石減封の9万石で入部する。奥平昌能の父忠昌は前藩主松平忠弘と従兄弟なので同族である。しかし忠昌が死去した際、寵臣杉浦右衛門兵衛が殉死、これが5年前に殉死を禁じた幕府の法令に触れてしまう。また忠昌の27日法要で不祥事「宇都宮興禅寺刃傷事件」が起こり、これは後に江戸三大仇討ちと呼ばれる浄瑠璃坂の仇討にまで発展することになった。8月に奥平家は幕府より殉死禁制違反の咎から2万石減封の9万石の上で出羽山形藩に移封させられた。 この奥平家の転封は、それまで東北の外様雄藩を牽制する重要な役目を担っていた山形藩が、譜代大名の実質的左遷地になる始まりだった。所領が大幅に減少したのもそのためである。 さて、奥平昌能が入部するにあたっては2万石の減封のために家臣の知行も減知された。また小藩になったのに山形城自体は大藩最上家時代のままを継承しているため、維持費や管理費だけでも大変だった上、奥平家臣の中には他家に移ったり浪人する者が多かったという。また山形藩は領知高の割に収益が少なかったことも、財政難の一因となる。移封の原因となった昌能は寛文12年(1672年)に死去し、実妹の子すなわち甥で養子の昌章が跡を継いだ。昌章は藩主になったときは5歳の幼年のため、山形に初入国したのは貞享元年(1684年)のことだった。昌章には文武の才能がほとんど無く、家臣にも優秀な人物がいなかったため山形は大いに荒廃したという。貞享2年(1685年)、奥平家は同じ石高で再び宇都宮藩へ転封となった。
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