奥平忠昌の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:19 UTC 版)
代わって下野宇都宮より奥平忠昌が1万石加増の11万石で入るが、これは北関東の要衝である宇都宮を幼少の忠昌では治めきれないと考慮されてのこととされる。だがこのために忠昌の祖母加納御前が後任の宇都宮藩主本多正純を憎悪し、元和8年(1622年)に宇都宮城釣天井事件が起こって正純は改易され、忠昌は宇都宮藩に11万石で戻る事になった。なお、それまでの藩主が3万石程度だったのに対し、奥平家は11万石と4倍近い禄高だったことから古河城は大規模に拡張する必要に迫られ、侍屋敷も拡張されて城下町も大きく拡張整備された。
※この「奥平忠昌の時代」の解説は、「古河藩」の解説の一部です。
「奥平忠昌の時代」を含む「古河藩」の記事については、「古河藩」の概要を参照ください。
- 奥平忠昌の時代のページへのリンク