奥平松平家の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 05:11 UTC 版)
明和4年(1767年)9月に、上野上里見藩主で幕府の若年寄を務めていた松平忠恒(奥平松平家)が2万石で入る。なお、忠恒は織田家と縁戚であり、奥平松平家は奥平信昌の子孫にあたる家である。 奥平松平家の歴代藩主4人は若年寄、寺社奉行、奏者番などを歴任した。しかし藩財政の困窮化と領内の荒廃化が進み、寛政11年(1799年)に困窮農民救済の低利貸付金制度(恵民講)を制度化したが、効果はなかった。藩の借金であるが、天保15年(1844年)には収入に対して借金が10倍近くの7万4032両にまでなっていたと言われている。松平忠恵は若年寄を務めた功績により、嘉永3年(1850)に「城主格」の格式が認められており、以後「小幡陣屋」は「小幡城」と呼ばれる。 幕末期には激動の波に飲み込まれて見るべきところもほとんどなく、明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に与して藩を維持するのが精一杯であった。翌年の版籍奉還で最後の藩主・忠恕は知藩事となり、明治4年の廃藩置県で小幡藩は廃されて小幡県となり、同年10月には群馬県に編入された。
※この「奥平松平家の治世」の解説は、「小幡藩」の解説の一部です。
「奥平松平家の治世」を含む「小幡藩」の記事については、「小幡藩」の概要を参照ください。
- 奥平松平家の治世のページへのリンク