奥平家の時代(第1期)
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宇都宮は有史以来、北関東の軍事・交通の要衝であったが、徳川家康が没して日光東照宮が造営され、これが家康の廟所となると、宇都宮城は将軍が墓参するための宿泊地となり、その重要性は著しく高まった。また下野国は古来より地勢が安定しており、その中心地であった宇都宮には譜代中の譜代の家臣が入封した。 関ヶ原後の慶長6年(1601年)12月、家康の重臣で娘婿の奥平信昌の嫡子家昌が10万石で宇都宮に入部したことから宇都宮藩が成立した。家昌の母は家康の長女の亀姫で、家昌は家康の外孫に当たる。家昌は奥平家の世子であったので無禄だった身代がいきなり10万石の大名に取り立てられたのは、家康が北関東の要衝である宇都宮に誰を配置するか悩んでいた際、天海僧正が家康に家昌に賜うべきと主張したのが決め手になったという。しかし、いきなり10万石となったため家臣団を新たに編成しなければならなくなり、この時にかつて父信昌が長篠の戦いで活躍した際に共に功績を立てて家康への拝謁が許された7族5老(のちにこの区別はなくなり大身衆と称される)、奥平家重臣の分家を勧めて文武一芸に秀でた浪人を多く召抱えたりした。また家昌は伊奈忠次と幕府公役の宇都宮大明神社殿造営の奉行を務め、城下町の発展のために市を開催して、家昌の官名「大膳」から「大膳市」と呼ばれた。慶長19年(1614年)10月から大坂の陣が始まるも、家昌はこの時病床にあり参戦できず、江戸城留守居役を命じられるが、10月10日に38歳で病死した。世子の千福(奥平忠昌)が11月18日に家督相続を認められるが、まだ7歳であった。忠昌は曽祖父家康が死の床につくと、駿府城に見舞いに赴いたことを大いに喜ばれ、印籠や白鳥蛸の槍、葵紋の鞍を与えられた。家康没後の翌年から日光東照宮が造営され、忠昌も造営に協力した。 元和5年(1619年)10月、忠昌は1万石を加増されて11万石とされた上で下総古河藩へ移封された。理由は奥羽への押さえとして重要な宇都宮藩主には忠昌こと千福では幼すぎるためというものであった。
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奥平家の時代(第2期)
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正純改易後は、古河藩に移されていた奥平忠昌が11万石で再封した。忠昌の時代は46年続いたが、その期間に徳川将軍家の日光社参が13回行われた。これは江戸期で行われた将軍家の社参19回の内の大半が忠昌期に行われたということであり、その対応に奥平家は追われ、百姓町人は負担の大きさから生活が逼迫した。 忠昌は寛文8年(1668年)2月19日に病死し、嫡子の昌能が跡を継いだ。しかし忠昌の死に際して寵臣杉浦右衛門兵衛が殉死、これが5年前に殉死を禁じた幕府の法令に触れてしまう。また忠昌の二十七日法要で不祥事(宇都宮興禅寺刃傷事件)が起こり、これは後に江戸三大仇討ちと呼ばれる浄瑠璃坂の仇討にまで発展することになった。8月に奥平家は殉死禁制違反の咎から2万石減封の9万石で出羽山形藩に移封させられた。
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奥平家の時代(第3期)
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本多忠平に代わり、貞享2年(1685年)6月22日に奥平昌章が出羽山形藩より9万石で入った。昌章は17年前に不祥事で山形に減移封された昌能(昌能は寛文12年(1672年)に死去)の養子(妹の子)である。昌章は奥州街道と日光街道が通る宇都宮は旅人が多く、病人対策のため元禄2年(1689年)に順番医制度を導入して医師20人を常駐させた。昌能は元禄8年(1695年)に28歳で病死した。跡を継いだ次男昌成はわずか2歳と幼少のためもあり、元禄10年(1697年)2月11日に丹後宮津藩へ移封となる。
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