宝暦治水とは? わかりやすく解説

宝暦治水事件

(宝暦治水 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/19 06:26 UTC 版)

宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸幕府によって行われた木曽三川木曽川長良川揖斐川)の治水事業、いわゆる宝暦治水の過程で、薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害したとされる事件。


  1. ^ 西村利雄『薩摩義士伝 濁流の人柱』(1968年)よりの引用[12]
  2. ^ 伊藤信は「島津氏世録正統系図」宝暦三年治水記であるとしている
  3. ^ 中西達治は、「工事着工前に江戸藩邸が見積もった」、もしくは「史料作成時点に江戸藩邸が実際に掛かった費用が30万両と把握していた」のいずれとも解釈できるとしている[23]
  4. ^ 「島津氏世録正統系図」では、金を貸して利子を取る商売を行っているものという註が付されている
  1. ^ a b 秋山晶則 2012, p. 106.
  2. ^ 秋山晶則 2012, p. 106、110.
  3. ^ 秋山晶則 2006, p. 54.
  4. ^ a b 山下幸太郎 2011, p. 239.
  5. ^ a b c d 秋山晶則 2013, p. 111.
  6. ^ a b 山下幸太郎 2011, p. 240.
  7. ^ 山下幸太郎 2011, p. 237-238.
  8. ^ a b 秋山晶則 2005, p. 64.
  9. ^ a b c 秋山晶則 2005, p. 68.
  10. ^ 羽賀祥二 2005, p. 82-81.
  11. ^ 山下幸太郎 2011, p. 238.
  12. ^ a b 山下幸太郎 2011, p. 239-241.
  13. ^ a b c 羽賀祥二 2005, p. 102.
  14. ^ 中西達治 2017, p. 195.
  15. ^ 山下幸太郎 2011, p. 238-239.
  16. ^ a b c d e 羽賀祥二 2005, p. 90.
  17. ^ a b c 羽賀祥二 2005, p. 84.
  18. ^ 羽賀祥二 2005, p. 88-87.
  19. ^ a b c d 羽賀祥二 2005, p. 87.
  20. ^ a b 羽賀祥二 2005, p. 87-86.
  21. ^ a b 羽賀祥二 2005, p. 86.
  22. ^ a b 羽賀祥二 2005, p. 102-101.
  23. ^ a b c d e 中西達治 2017, p. 190.
  24. ^ 山本弘文「薩摩藩の天保改革と奄美、沖縄」『沖縄文化研究』第6巻、法政大学沖縄文化研究所、1979年、209頁。 
  25. ^ 中西達治 2017, p. 191.
  26. ^ 中西達治 2017, p. 192.
  27. ^ a b 羽賀祥二 2005, p. 83.
  28. ^ 中西達治 2017, p. 193.
  29. ^ 知野泰明 & 大熊孝 2002, p. 49.
  30. ^ 知野泰明 & 大熊孝 2002, p. 58-59.
  31. ^ a b c 羽賀祥二 2005, p. 99.
  32. ^ a b c d 知野泰明 & 大熊孝 2002, p. 59.
  33. ^ 秋山晶則 2005, p. 67-66.
  34. ^ a b c 秋山晶則 2003, p. 56.
  35. ^ 山下幸太郎 2011, p. 236.
  36. ^ 羽賀祥二 2005, p. 99-98.
  37. ^ a b 羽賀祥二 2005, p. 98.
  38. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.42
  39. ^ 羽賀祥二 2005, p. 95.
  40. ^ a b c 山下幸太郎 2011, p. 155.
  41. ^ 薩摩堰治水神社”. 岐阜県輪之内町〜輪中が息づく平らな町〜. 2023年8月6日閲覧。
  42. ^ 羽賀祥二 2005, p. 100.
  43. ^ 山下幸太郎 2011, p. 151.
  44. ^ 山下幸太郎 2011, p. 152.
  45. ^ a b 山下幸太郎 2011, p. 152-153.
  46. ^ 秋山晶則 2013, p. 116.
  47. ^ 羽賀祥二 2005, p. 100-99.
  48. ^ a b c 羽賀祥二 2005, p. 88.
  49. ^ a b 山下幸太郎 2011, p. 244.
  50. ^ 山下幸太郎 2011, p. 241.
  51. ^ 羽賀祥二 2005, p. 91-90.
  52. ^ 羽賀祥二 2005, p. 85.
  53. ^ 秋山晶則 2003, p. 57.
  54. ^ 山下幸太郎 2011, p. 245-246.
  55. ^ 岐阜県:岐阜県と鹿児島県の姉妹県盟約締結”. 岐阜県. 2016年1月13日閲覧。
  56. ^ 岐阜県”. 鹿児島県. 2016年1月13日閲覧。



宝暦治水

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木曽川」の記事における「宝暦治水」の解説

宝暦治水碑。平田靱負薩摩藩士の遺徳称えている。 ヨハニス・デ・レーケ像(船頭平河川公園詳細は「宝暦治水事件」を参照 1753年宝暦3年12月幕府薩摩藩主・島津重年対し尾張藩領内木曽三川分流工事命令した外様雄藩経済力削ぐ為の施策御手伝い普請」である。薩摩藩平田靱負総奉行として翌1754年宝暦4年)から1年掛け長良川揖斐川分流工事行ったいわゆる宝暦治水事件である。工事駆り出され薩摩藩士の苦難並大抵のものでは無く幕府厳し監視下で多く藩士切腹したり病死した。かくして不完全とは言え長良川揖斐川分流締切工事完成した。現在に残る油島千本松原締切堤である。だが、平田薩摩藩多大な負債多く藩士死なせ責め一身負い完成自刃して果てた施策後の洪水頻度結果的に増加しているが、彼は1938年昭和13年治水神社まつられ地元住民今でも平田始めとする薩摩藩士の遺徳慕っている。

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宝暦治水

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宝暦治水事件」の記事における「宝暦治水」の解説

宝暦治水とは、江戸時代宝暦年間1754年宝暦4年2月から1755年宝暦5年5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事である。濃尾平野治水対策のため木曽川長良川揖斐川分流する工事であり、三川分流治水ともいう。 木曽川長良川揖斐川の3河川濃尾平野貫流し下流川底が高いことに加え三川複雑に合流分流繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主利害対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水多発していた。また、美濃国側では尾張藩御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか造ってはいけなかったとする伝承もある。 1735年享保20年)、美濃郡代であった井沢為永井沢弥惣兵衛)が三川調査の上分流工事立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難のため幕府許可下りなかったとされるこの際立案された計画が後に宝暦治水に利用されたといわれているが、確たる証拠はない。ただし、それ以前以降輪中地域住人三川分流幕府へ度々願い出ていた。幕府1747年延享4年)に二本松藩主・丹羽高庸対し井沢の案を規模縮小した形で手伝普請として治水工事命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。 時代が下るにつれて木曽三川流域は、土砂の堆積新田開発による遊水地減少により洪水による被害がさらに激化していった。1753年宝暦3年12月28日、9代将軍・徳川家重薩摩藩主・島津重年手伝普請という形で正式に川普請工事命じた。この普請幕府指揮監督の下、薩摩藩資金準備し人足動員資材の手配をする形態であったまた、地元村方救済するため、町人請負基本的に禁止して村請により地元金を落とす方針取った工事二期分けられ第一期水害によって破壊され堤防などの復旧が行われ、第二期治水目的とした工事が行われた。第二期工事輪中地域南部四つ工区分けて行われた。一之手は旗本西高木家奉行務め桑原輪中岐阜県羽島市)から神明津輪中愛知県稲沢市祖父江町)までで、木曽川長良川を繋ぐ逆川岐阜県羽島市)に木曽川から長良川への流入阻む洗堰設け木曽川猿尾堤を築く工事含んだ。二之手は美濃郡代奉行務め森津輪中愛知県弥富市)から田代輪中三重県桑名郡木曽岬町)を工区とし、筏川開削浚渫が行われた。三之手は旗本東高木家奉行となり墨俣輪中岐阜県大垣市)から本阿弥輪中岐阜県海津市)を担当として、長良川揖斐川を繋ぐ大榑川洗堰設けて長良川から揖斐川への流入抑える工事を含む。四之手は旗本北高木家奉行金廻輪中岐阜県海津市)から長島輪中三重県桑名市)に至る地域含み木曽川揖斐川合流地点に食違堤(食違堰)を設けて木曽川から揖斐川への流入抑えることを狙った揖斐川西岸への水の流入防ごうとすると長良川常水位が上がり、その沿岸地域水害危険にさらされ、また長良川への木曽川からの流入減らそうとすると木曽川沿岸溢流可能性が高まるという濃尾平野の西低東高構造により、輪中同士および尾張藩との利害対立し、また河川工学土木工学未発達だったこともあって、いずれの工事河川を完全に締め切り、あるいは切り離したりすることはできなかった。 1754年宝暦4年1月16日薩摩藩家老平田靱負総奉行大目付伊集院を副奉行任命し藩士現地派遣して工事にあたらせた。度々水害見舞われ貧窮する輪中地域住民労働充て救済する目的もあり、通常の公儀普請比べて割高な賃金工事に関する経験技術乏し地元住民支払うことを余儀なくされた。また、工事進んでいたところを水害見舞われ工事済み部分破壊されることもあった。さらに見試し工法によって工事進められたため、工事設計途中で変更されることがしばしばあり、当初予想されたよりも多額の費用が必要となった。 宝暦治水は設計計画幕府により行われる手伝普請であり、幕府側の総責任者勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛命じられている。高木自家の家臣のみでは手に余ると判断し急遽治水長けた内藤左衛門雇っている。

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宝暦治水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 10:08 UTC 版)

平田靱負」の記事における「宝暦治水」の解説

1753年宝暦3年)、徳川幕府琉球との貿易によって財力得ていた薩摩藩恐れて毎年氾濫による被害多発していた木曽三川分流工事薩摩藩命じる。工事費用は薩摩藩全額負担大工などの専門職人を一切雇ってならないとした。 露骨な弾圧政策薩摩藩幕府への反発極めこのまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事引き受けることとなり、平田総奉行となる。 40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金重ね幕府へもたびたび専門職人の雇用許可要請する許可下りず、工事やり直し命じられることがしばしばあった。工事派遣され薩摩藩士達の過労伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川方からも、薩摩藩同情して抗議切腹を行う武士二名いたほどである)。この件に関して平田幕府との摩擦回避するため、切腹し藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者出している。 分流工事着工から1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、その後平田死去した享年50遺体山城国伏見大黒寺葬られ遺髪鹿児島城下の妙国寺埋められる藩主島津重年心労で、後を追うように翌月27歳病没している。 辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃大牧」。

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