宝暦治水事件
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宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸幕府によって行われた木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業、いわゆる宝暦治水の過程で、薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害したとされる事件。
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宝暦治水
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宝暦治水碑。平田靱負ら薩摩藩士の遺徳を称えている。 ヨハニス・デ・レーケ像(船頭平河川公園) 詳細は「宝暦治水事件」を参照 1753年(宝暦3年)12月、幕府は薩摩藩主・島津重年に対し尾張藩領内の木曽三川分流工事を命令した。外様雄藩の経済力を削ぐ為の施策「御手伝い普請」である。薩摩藩は平田靱負を総奉行として翌1754年(宝暦4年)から1年を掛け、長良川と揖斐川の分流工事を行った。いわゆる宝暦治水事件である。工事に駆り出された薩摩藩士の苦難は並大抵のものでは無く、幕府の厳しい監視下で多くの藩士が切腹したり病死した。かくして不完全とは言え、長良川・揖斐川の分流・締切工事は完成した。現在に残る油島千本松原締切堤である。だが、平田は薩摩藩に多大な負債と多くの藩士を死なせた責めを一身に負い、完成後自刃して果てた。 施策後の洪水の頻度は結果的には増加しているが、彼は1938年(昭和13年)治水神社にまつられ、地元住民は今でも平田を始めとする薩摩藩士の遺徳を慕っている。
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宝暦治水
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宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事である。濃尾平野の治水対策のため木曽川、長良川、揖斐川を分流する工事であり、三川分流治水ともいう。 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し、統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか造ってはいけなかったとする伝承もある。 1735年(享保20年)、美濃郡代であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難のため幕府の許可が下りなかったとされる。この際に立案された計画が後に宝暦治水に利用されたといわれているが、確たる証拠はない。ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。幕府は1747年(延享4年)に二本松藩主・丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形で手伝普請として治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。 時代が下るにつれて木曽三川流域は、土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。1753年(宝暦3年)12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。また、地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金を落とす方針を取った。工事は二期に分けられ、第一期は水害によって破壊された堤防などの復旧が行われ、第二期は治水を目的とした工事が行われた。第二期の工事は輪中地域の南部を四つの工区に分けて行われた。一之手は旗本西高木家が奉行を務め、桑原輪中(岐阜県羽島市)から神明津輪中(愛知県稲沢市祖父江町)までで、木曽川と長良川を繋ぐ逆川(岐阜県羽島市)に木曽川から長良川への流入を阻む洗堰を設け、木曽川に猿尾堤を築く工事を含んだ。二之手は美濃郡代が奉行を務め、森津輪中(愛知県弥富市)から田代輪中(三重県桑名郡木曽岬町)を工区とし、筏川の開削と浚渫が行われた。三之手は旗本東高木家が奉行となり墨俣輪中(岐阜県大垣市)から本阿弥輪中(岐阜県海津市)を担当として、長良川と揖斐川を繋ぐ大榑川に洗堰を設けて長良川から揖斐川への流入を抑える工事を含む。四之手は旗本北高木家が奉行で金廻輪中(岐阜県海津市)から長島輪中(三重県桑名市)に至る地域を含み、木曽川と揖斐川の合流地点に食違堤(食違堰)を設けて木曽川から揖斐川への流入を抑えることを狙った。 揖斐川西岸への水の流入を防ごうとすると長良川の常水位が上がり、その沿岸地域が水害の危険にさらされ、また長良川への木曽川からの流入を減らそうとすると木曽川沿岸で溢流の可能性が高まるという濃尾平野の西低東高の構造により、輪中同士および尾張藩との利害が対立し、また河川工学や土木工学が未発達だったこともあって、いずれの工事も河川を完全に締め切り、あるいは切り離したりすることはできなかった。 1754年(宝暦4年)1月16日、薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に充てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関する経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ、工事済みの部分が破壊されることもあった。さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあり、当初予想されたよりも多額の費用が必要となった。 宝暦治水は設計、計画は幕府により行われる手伝普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行・一色政沆、監督者として水行奉行・高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。
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宝暦治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 10:08 UTC 版)
1753年(宝暦3年)、徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。工事費用は薩摩藩が全額負担、大工などの専門職人を一切雇ってはならないとした。 露骨な弾圧政策に薩摩藩は幕府への反発を極め、このまま潰されるくらいなら一戦交えようという過激な意見まで噴出したが、平田が「民に尽くすもまた武士の本分」と説破して工事を引き受けることとなり、平田は総奉行となる。 40万両にも上る工事費用を捻出するため大坂豪商から借金を重ね、幕府へもたびたび専門職人の雇用許可を要請するも許可は下りず、工事のやり直しを命じられることがしばしばあった。工事に派遣された薩摩藩士達の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、また幕府に抗議して切腹する薩摩藩士達も続出した(この時には、本来監視役のはずの徳川方からも、薩摩藩に同情して抗議の切腹を行う武士が二名いたほどである)。この件に関して、平田は幕府との摩擦を回避するため、切腹した藩士たちを事故死として処理している。薩摩藩は最終的に病死33名、自殺者52名という多大な殉職者を出している。 分流工事は着工から1年3ヶ月ほどでようやく完成したが、その後平田は死去した、享年50。遺体は山城国伏見の大黒寺に葬られ、遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められる。藩主島津重年も心労で、後を追うように翌月に27歳で病没している。 辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。
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