江戸時代の平之馬場町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:42 UTC 版)
江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島城下のうちであった。この一帯は鹿児島城下の士屋敷で鹿児島城に近い位置に所在しており、上級武士の屋敷が多く所在していた。現在の平田公園の敷地は宝暦治水事件で指揮をとり、後に宝暦治水の責任をとって自害した平田靱負の屋敷跡であり、鹿児島県の史跡にも指定されている。 また、平田公園内には平田靱負の銅像が1955年(昭和30年)に建立され、現在でも頌徳慰霊祭が行われている。平田靱負の屋敷の隣には調所広郷の屋敷が所在していた。 延宝8年に発生した田尻殿大火では地内にあった田尻殿屋敷から出火し、3,308軒が全焼、54名の死者を出すなど大きな被害を出した。
※この「江戸時代の平之馬場町」の解説は、「平之町」の解説の一部です。
「江戸時代の平之馬場町」を含む「平之町」の記事については、「平之町」の概要を参照ください。
- 江戸時代の平之馬場町のページへのリンク