江戸時代の後藤分銅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 15:49 UTC 版)
江戸時代の銀貨は、丁銀および豆板銀すなわち秤量銀貨であり、両替商において天秤で量目(質量)を測定してから通用価値が定められた。この時用いられた分銅は青銅製で不正を防止する観点から彫金を本職とする、後藤四郎兵衛家のみ製作が許され、これ以外のものの製作および使用は禁止された。 そのため寛文5年(1665年)の度量衡統一以来幕末まで200年以上に亘って尺貫法の質量の単位である「両」および「匁」は均質性が保たれている。 この分銅の形は蚕の繭をかたどったものといわれている。江戸時代初期には海外輸出までするようになった幕末以降とは異なり生糸の需要は国産では十分に賄えず莫大な量が輸入されており、貴重品とされた。また両替商の看板も分銅を意匠とした物で銀行の地図記号として今日に伝えられる。
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