江戸時代の川上氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 18:58 UTC 版)
川上氏本家は各地の地頭職を歴任し、「堅馬場家」とも称され600石の家禄を得て一所持の家格とされた。また昌久の孫にあたる久利の家も本家とは別に403石を拝領し、「竜衛家」と称され寄合衆の家格となる。また、久尚の子の久明の系統は「弥五大夫家」と称し、やはり寄合衆となった。庶流である久朗の系統の家は「式部家」と称され(寄合衆)、237石を得て代々家老・目付の要職にあった。 正徳年間より、偏諱は寄合並以上の嫡男は「久」、次男以下は「親」の字とされ、士分以下や他家奉公の川上姓は改姓するよう命が下ったが、明治3年(1870年)より復姓が許された。
※この「江戸時代の川上氏」の解説は、「川上氏」の解説の一部です。
「江戸時代の川上氏」を含む「川上氏」の記事については、「川上氏」の概要を参照ください。
- 江戸時代の川上氏のページへのリンク