江戸時代の宮沢橋と宮沢渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 01:52 UTC 版)
「宮沢橋 (広瀬川)」の記事における「江戸時代の宮沢橋と宮沢渡し」の解説
江戸時代の初め、仙台城下町が建設されて間もない頃、新たに整備された奥州街道は宮沢渡しの地点で広瀬川を渡っていた。後に橋がかけられたらしく、寛永14年(1637年)に舟町の橋が流されたことが知られる。若林城および若林城下町が建設され、伊達政宗死後に仙台城下町と統合される中、河原町も城下になって長町宿との間に長町橋(現在の広瀬橋)が架けられると、宮沢橋のほうでは橋も渡し場も廃止された。 江戸時代の宝暦のころ(1751年 - 1763年)に再び渡し場が設けられたが、文政のころ(1818年 - 1829年)に廃止された。文久2年(1862年)に林藤助が近くの宗禅寺の援助でこの渡しを再開した。明治4年(1871年)に中断したが、2年後の明治6年(1873年)に再開した。渡し賃は江戸時代に3文、明治時代に3厘であった。
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