江戸時代の宗教と女性
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「日本の女性史」の記事における「江戸時代の宗教と女性」の解説
宗教から生まれた女性不浄感はその社会に浸透し、近世になると酒造りや祭などから女性を締め出した。17世紀後半から商品経済が発達し女性も収入を得るようになると宗教あるいは宗教との関わりに変化が生まれる。18世紀前半に富士講が流行するが、身禄は五障を否定し「男女に如何なる隔てもない」と対等であることを説いた。しかし「三従の務めをよく行うなら罪は無い」と男尊女卑を前提としたもので社会的な平等とは異なるものであった。18世紀後半からは伊勢参りや金毘羅参りや霊場巡礼などが流行し女性も足を運ぶ。入鉄炮出女と呼ばれるように、江戸を出る女性には関所で厳しい検分が行われたが、女性らは障害を越えて旅をした。こうした参詣旅は一時的なレクリエーションを兼ねるものであった。19世紀に至ると如来教のきのや天理教の中山みきなどの女性教祖が登場する。如来教はあの世とこの世を無限に流転するうえで男女が入れ替わる事があるとし男女の区別を否定した。また天理教は男女一対から世界が生まれたとし男女共存を説いた。こうした男女の性差を越えようとする宗教思想は庶民女性から起こった。 近世の女性はどの身分でも家父長制の中で男性に隷属させられたが、これらは儒教によって正当化されていた。陰陽に基づいて女性は生まれながらに陰とされ、陽の男性よりも劣る性とされた。このような女性観は『女大学』などの女性用教訓書などにより女性たちに植え付けられた。こうした世相の中で只野真葛は儒教を批判する国学と蘭学から得た知識を元に『独考』を1817年に著し、儒教の女性観を批判した。
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