江戸時代の太良鉱山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 14:52 UTC 版)
最初に記録が残された当時、藤琴村一帯は梅津政景の代官所であった。梅津政景日記の1616年(元和2年)12月13日の条に、1613年(慶長18年)から慶長19年にかけての藤琴鉛山から算出された6千貫ほどの鉛の記録がある。これが記録に残るこの鉱山の初出である。慶長19年8月16日の条には、阿仁鉱山の開発によって石かね(銀を含んだ鉛の鉱石)の需要が急増し、阿仁鉱山内の石倉鉱山だけでは不足して、藤琴から石かねを取り寄せるように指示したことを記録している。1625年(寛永2年)7月4日の条には院内銀山にも藤琴鉛山の鉛が使用されたとする記録がある。同7月6日の記録には、藩で買い上げた鉛は、能代湊から土崎湊へ運ばれ「湊目」をつけて雄物川を上り、院内銀山に運ばれ、溶融や製錬に使われていたことがわかる。 藤琴鉛山はのちに太良鉱山と改名し、生産を続けた。1775年(安永4年)に加護山製錬所が開設され、大量の鉛が輸送された。 秋田藩内には協和町境から角館までの途中にある繋鉛山と、北秋田郡阿仁町にある土倉鉛山という鉛鉱山があった。しかし、藩政の最後まで大量の鉛を産出したのは太良鉱山だけであった。
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