江戸時代の大橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 01:47 UTC 版)
広瀬川は洪水が多く、大橋は何度も流されては架け直された。それゆえ規模は一定しないが、真山記には横5間、竪50間、正保の絵図に幅5間半、長さ60間。明和9年の『封内風土記』では長64間、幅2丈5尺。川床の岩に穴を掘って橋脚を差し入れ、上部に桁を組んで板で橋面を作り、高欄をつけたもので、当時の板橋として標準的なものであった。 今の大橋は、大手門にまっすぐ向かう道路に架けられているが、江戸時代の道はそれより北にずれていた。西に向かう道はいったん石垣にぶつかってから、石垣に沿って南に曲がり、門の前でまた西に向き直って城内に入った。防衛上の配慮である。当時の大橋はこの道筋に従って、今よりわずかに北に架けられていた。現在も、岩を掘り込んだ昔の柱跡が穴になって残り、増水時でなければ橋の上から見える。 大橋の西、仙台城の外は川内といい、伊達家の上級家臣の屋敷が並んでいた。川内は丸の内とも呼ばれ、広瀬川を天然の堀に見立てた第一線の守りであった。一般の通行は禁止されており、大橋には番所がおかれ、通行者を取り締まった。番人は近くに屋敷を持つ水沢伊達氏、登米伊達氏、片倉氏が出した。江戸時代には城のほとんどが樹木に隠れ、橋からは大手門近辺しか見えなかったという。 寛永元年(1624年)には、ポルトガル人のカルバリオ神父と八人の日本人キリシタンが捕らえられ、大橋の下で冬の広瀬川に浸される責めを受け、殉教した。昭和46年(1971年)に建てられたキリシタン殉教の碑が、橋から東岸北側に降りたところにある。
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