江戸時代の慈照寺とは? わかりやすく解説

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江戸時代の慈照寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)

慈照寺 (甲斐市)」の記事における「江戸時代の慈照寺」の解説

慶長5年1600年)には関ヶ原の戦い経て徳川家康が再び甲斐領する徳川氏甲斐国内の検地実施し慶長8年1603年)の徳川家奉行人棟役免許手形では天正17年時と同規模の寺領最終的に確定され寺領石高8石余・境内免除1523坪が決定された。歴代将軍朱印状11点明治維新期鎮撫府へ提出され、寺には預状11通が現存しているほか、朱印状保管した御朱印箱も残されている。 また、慶長17年1612年)には甲斐国内の曹洞宗寺院寺格定められ広厳院慈照寺末寺大泉寺甲府市古府中)が僧録司定められ常法本寺格として広厳院大泉寺のほか永昌院龍華院南明寺興因寺伝嗣院の七ヶ寺が定められている。慈照寺はこれに含まれておらず、同時期には寺勢が衰えていたとも考えられている。 慶長16年徳川氏代官寺地免許手形拠れば慶長10年竜王村から分村して成立した竜王新町検地に際して末寺信慶寺分」が記載されている。信慶寺は慈照寺世・良宗慶隠居所として開いたであったが、檀家少なく明治10年慈照寺と合寺したという。なお、竜王新町では甲州街道信州往還)沿いで、慶長11年1606年)あるいは元和元年1615年)に浄土宗寺院正念寺創建されている。 江戸時代には十世・量岫長応が中興祖師位置づけられている。量岫長応は寛永9年1632年)に入寺し、法堂再建山門新築過去帳整備末寺開山などを行った。量岫長応の諸事業は十一世・界翁関刹、十二世・徳翁長喜にも継承され、徳翁長喜は五百羅漢像勧進造立涅槃図歴代祖師像修理など、什物充実行っている。十世から十二世までの諸事業には甲府勤番士竜王村在住の有力檀家渡辺善兵衛尽力し渡辺家中興開山位置づけられており、境内には同家墓所存在する

※この「江戸時代の慈照寺」の解説は、「慈照寺 (甲斐市)」の解説の一部です。
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