江戸時代の慈照寺
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「慈照寺 (甲斐市)」の記事における「江戸時代の慈照寺」の解説
慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が再び甲斐を領する。徳川氏は甲斐国内の総検地を実施し、慶長8年(1603年)の徳川家奉行人棟役免許手形では天正17年時と同規模の寺領が最終的に確定され、寺領石高8石余・境内免除地1523坪が決定された。歴代将軍の朱印状11点は明治維新期に鎮撫府へ提出され、寺には預状11通が現存しているほか、朱印状を保管した御朱印箱も残されている。 また、慶長17年(1612年)には甲斐国内の曹洞宗寺院の寺格が定められ、広厳院と慈照寺末寺の大泉寺(甲府市古府中)が僧録司に定められ、常法幢本寺格として広厳院・大泉寺のほか永昌院・龍華院、南明寺・興因寺・伝嗣院の七ヶ寺が定められている。慈照寺はこれに含まれておらず、同時期には寺勢が衰えていたとも考えられている。 慶長16年の徳川氏代官寺地免許手形に拠れば、慶長10年に竜王村から分村して成立した竜王新町の検地に際して「末寺信慶寺分」が記載されている。信慶寺は慈照寺七世・良室宗慶が隠居所として開いた寺であったが、檀家が少なく明治10年に慈照寺と合寺したという。なお、竜王新町では甲州街道(信州往還)沿いで、慶長11年(1606年)あるいは元和元年(1615年)に浄土宗寺院の正念寺が創建されている。 江戸時代には十世・量岫長応が中興祖師と位置づけられている。量岫長応は寛永9年(1632年)に入寺し、法堂再建・山門新築、過去帳の整備、末寺の開山などを行った。量岫長応の諸事業は十一世・界翁関刹、十二世・徳翁長喜にも継承され、徳翁長喜は五百羅漢像の勧進造立、涅槃図、歴代祖師像の修理など、什物の充実を行っている。十世から十二世までの諸事業には甲府勤番士で竜王村在住の有力檀家・渡辺善兵衛が尽力し、渡辺家は中興開山と位置づけられており、境内には同家の墓所も存在する。
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