宝暦年間の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 05:05 UTC 版)
5代目亀田藩主の岩城隆韶は、仙台藩主伊達吉村の甥(伊達村興の子)にあたり、6代目藩主の岩城隆恭も仙台藩士の伊達村望の子であったため、亀田藩は久保田藩の佐竹氏と無縁になった。1745年(延享2年)以降、亀田藩は家臣への知行半額を断行し、さらに蔵米の95%を投入してもなお、前金決済が不可能である事態に至った。そのため1753年(宝暦3年)6月には亀田藩から3度目の下り船への課税の通告がなされた。これを受けた久保田藩では、従来のような「おどし」だけでは済まされなくなり、対応策の検討に迫られた。 課税額は「米1俵につき、3分斗」であり、例年の推定では下り船だけで年に30貫目近くになるだけではなく、取り調べのために運送が遅滞する。そのため、亀田領に入る前に船を陸付けして荷を輸送し、亀田領内は空船として通過させることになった。ただ、陸送区間となる小種村に山があり、その端を少々切り開かなければ馬の通行が困難と思われた。久保田藩は1679年の約束の遵守を繰り返し要求し、陸送を亀田藩にほのめかすしかなかった。亀田藩は、年2千石であった土崎湊経由の無税の米輸送分を8千石増加して、合計1万石を無税にすることで下り船への課税を中止することを申し入れて来た。土崎湊での課税は米千石について6貫目であるから、8千石の増だと48貫目と計算し、その修正を受諾することにした。 こうして3度目の下り船への課税も、久保田藩が事実上の譲歩をすることによって落着したが、これは亀田藩が地方知行制から蔵米知行制に切り替え、雄物川流域の領地の年貢米を全面的に輸送しなければいけなくなったことも大きく作用している。最初からこれが目的であったのかもしれないという指摘もされている。
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