宝暦の改革
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新たに藩主についた重賢は、藩財政の改善に手を打つことになる。宝暦2年(1752年)、堀勝名(通称・平太左衛門(へいたざえもん))を筆頭奉行に、蒲池正定(蒲池崑山)を奉行に登用し、改革断行を命じる。堀は、すぐさま大坂に向かい鴻池家など豪商に借財を要請するが、当時の藩財政は危機的状況に陥っており、鴻池はこの要請を拒絶する。この話からも、熊本藩の状況がわかるといえる。しかし、堀はすぐさま当時新興商人であった加島屋との交渉に臨み、藩の年貢一手引き受けを条件に資金を得ることに成功する。 重賢もまた、質素倹約を奨励し、江戸藩邸の費用に限度額を設定するなどの方針を打ち出す。また、重賢は米だけに依存することに限界を感じており、堀と意見が一致する。堀に殖産興業を命じ、楮、生糸、櫨などを専売制に切り替え、蝋の生産を藩直営に移行し、製蝋施設を設立させた。また、領内でたびたび検地を行うなどした。 藩内で出来た製品を加島屋を通じて大量に販売させるなどし、宝暦年間末頃には藩財政の好転が始まっていく。また、宝暦年間から飢饉に備えて穀物の備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済にあたった。
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宝暦の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)
7代藩主・津軽信寧の代に勘定奉行を務めた乳井貢は藩士からの借米の一部を棒引きすると共に、豪商への課税を強化するなど藩財政を立て直しを行った。このことが功を奏し、宝暦5年(1755年)に発生した宝暦の飢饉の際には餓死者の発生を抑えることに成功。信寧より「貢」の名を賜った。 また、同6年(1756年)には、外が浜巡視をきっかけに津軽半島の海岸線に居住するアイヌ民族(本州アイヌ)を平民扱いとする同化政策を実施し、その生活や地位を向上させた。一方で、アイヌ民族固有の文化や生活様式は急速に失われ、抵抗した住民の一部は逃亡し、最終的には弘前藩に恭順している。 ところが、藩士や商人の抵抗により乳井は失脚、藩政改革は頓挫。天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩に大打撃を与える。乳井は幽閉地では水田を開き、村人に数学(そろばん)や和文の読み書き、実学ほかを教え慕われた。多数の著書を著わし、赤穂浪士を激しく批判した事や、中華思想や朱子学、朝鮮半島との関りにも反対意見を述べた 論文などが知られる。
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