宝暦11年の上田騒動とは? わかりやすく解説

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宝暦11年の上田騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 09:57 UTC 版)

上田騒動」の記事における「宝暦11年の上田騒動」の解説

宝暦11年1761年)、上田藩藩主松平忠順)の農民13,000人が上田城押し掛けた。この一揆での願いは、年貢軽減農民人足として使う事をやめる、中村弥左衛門はじめとする郡奉行(検見を行う役人)の不正の取り締まりであった。この郡奉行は、その年から年貢徴収方法従来定免法から古来検見法戻し農民踏み台にして得た年貢立身出世を謀ろうとした、とされている。 一揆参加した農民は、夫神田沢村当郷村松郷、入奈良本下奈良本村(以上現・長野県小県郡青木村)、川西諏訪部別所福田舞田(以上現・上田市)、千曲川東岸農民がほとんどであった12月11日諏訪部河原集合した農民たちは夜明けとともに上田城下になだれ込んだが、彼らが入城したとき藩主江戸出府中で、家老岡部九郎兵衛代わりに願い聞いた岡部農民達を前にして、「もし願い聞き届けられなかった場合は、農民たちが見ている前で切腹する覚悟だ」と話したと言われている。その翌日に、農民たちは城下町打ち壊し行ったほか、小牧(現・上田市)の庄屋役人結託しているとして、庄屋の家を襲撃した宝暦12年1762年1月9日上田城呼び出され農民岡部から、不正を行っていた郡奉行達を罷免したことと、たとえいかなる事情があっても、騒動直訴御定法違法行為)なので、騒動首謀者発見し取り調べると言い渡した農民たちにすれば自分達の要求大半受け入れられたため、一揆成功したことになったが、首謀者たちは役人による追及を受けることになった呼び出しから10日後、首謀者夫神農民清水半平中沢浅之丞庄屋西戸太郎兵衛であることが判明宝暦13年1763年3月2日半平60歳)と浅之丞(39歳)は死罪太郎兵衛永牢となった。なお、太郎兵衛20年後の天明3年1783年)に出獄し寛政2年1790年)に84歳死去した騒動記録したものに「上田縞格子」(上田市立図書館)がある。

※この「宝暦11年の上田騒動」の解説は、「上田騒動」の解説の一部です。
「宝暦11年の上田騒動」を含む「上田騒動」の記事については、「上田騒動」の概要を参照ください。

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