宝暦の伏見騒動
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浄土宗で木魚を打ちて念佛するは最初の人という。圓説和尚の説法勧化拠点と行動には一つの方式が見て取れる。時の人達は、大に尊敬し不退上人と呼ぶ様になり、寺邉の街道を今に不退道(現在の鳥羽街道筋)というようになったという。天の利(理)・地の利(理)・人の利(理)を定めつつ巧みに京・大坂を行き来しつつ念仏の勧化に務めた。しかし出る杭は打たれるのが世の常、佛教界における新運動の動きに“異端批判”が沸き起こった。六群輩より妨難が起こる。宝暦の“伏見騒動”の始まりである。 読経にて木魚を鳴らすこと、甚だ宜しからぬ風儀なり。木魚は黄檗山隠元の将来したる器にして、明末の法弊より起る具なれば、本宗の如き古風を仰ぐ宗門にて、用ゆるべき器にあらず、木魚を叩き経を誦し念仏することは、浄土宗不退和尚より始まりて大いに法論になりしことあり。それゆえ浄土宗にても華頂山、禅宗の五山妙心寺、大徳寺などには決して木魚を用いずとある。天台宗「総本山・園城寺法明院七世 恭堂(敬彦)著 『続山家学則』より」 ◆天台宗の重要な位置にある『無量寿経』→ 開経→『法華経』→ 南無妙法蓮華経→ 団扇太鼓→ 唱和には目を瞑り、天台宗もまた木魚念佛に対し古風を仰ぐ宗門等と本末転倒の意見を持ち出して異議を唱えた。圓説上人は日本佛教の殆どから異端とされ数々の批判を受けることになる。 不退円説の勧化説法が浄土宗の宗義、宗風に違反し、不穏当であるとして浄土宗の大坂天満門中・黒谷・百万辺門中、さらに伏見門中が本山知恩院と共に公儀へ告訴に及び、本山の決談所や公儀の西公事方へ不退圓説和尚が召寄せられた。糺明の吟味を受けた際の問答をとりまとめたものや、これに関する召寄状・受書・書翰等の往復文書類の留書が所収されており、この事件の顛末を知るこよなき資料となっている。 宝暦元(1751年)圓説40歳、宝暦年中に鳥羽法伝寺に所住した不退圓説という僧の説法勧化が原因となって、当時「伏見騒動」と呼ばれ近在の諸民の耳目をそばだてる宗論の公事出入に発展した近世浄土宗史上稀なる事件の記録が法傳寺に現存している。 歴史的背景は、いうまでもなく近世の宗教法制は、幕藩体制の擁護のために制定されたものであり、元和条目や寛文の諸宗法度にみられる通り、とくに異義・異安心の類は、厳しい統制の下におかれた。これに違反することは、由々しい事態を覚悟せねばならなかった。こうした制度下にあって不退圓説和尚の提唱は、ひとり浄土宗・京坂門中と云う特定の教団社会内部の教学論争に終始した事件に止まらず、多数の在家諸氏を捲きこんだ信仰問題、あるいは慣行的社会習俗を拒み公序良俗に反すると云う問題であったために、社会的問題として重視された。幕府公儀も当初は、単なる宗教的な行動ゆえと見ていたが社会的な、その広がりに少なからず恐れを感じつつあった。それが現実に脅威となったのは京中や近郊に止まらず大阪にまでその広がりが増えたことであった。元和元年(1615年)に「浄土宗法度(元和条目)」に「異安心」が制定されたが、その中には、庶民を扇動しあるいは宗義を曲解して新奇を標榜して信徒を集める浄土宗僧侶を取り締まる条目が設けられていた。 『圓説和尚の存念』を申すなら、浄土宗・吉水正流に基づいて正しく念佛を唱え教えて何が悪い、木魚は叩く物、経を唱えて木魚を叩くは禅宗の専売でもあるまいに、木魚を叩いて念佛を唱える事が悪いと言うなら、天台の法華の太鼓を叩きながらお題目を唱えるは悪いことになる、その道理をつまびやかに説明されよと宣わくも、民衆を扇動しての騒動を巻き起こしたとの解釈を押し通した本山と公儀のごり押しの裁断であった。敵は華頂山・本山知恩院と幕府にあり、その配下にある寺院もまた佛敵なりと、それを糾すに何の心に曇りもない 我が道をゆくのみ・・・ここに捨世派としての行動と概念が読み取れる。 この伏見騒動の顛末は光月庵の『寺史』に曰、 法傳寺所蔵の上人の傳記に見ゆとして伏見三十余の本宗寺院が上人の徳を嫉妬し智恩院に訴えた。その事を専政の弊此非道を敢行せりとしたためられている。しかし出る杭は打たれるのが世の常、佛教界における新運動の動きに“異端批判”が沸き起こった。六群輩より妨難が起こる。これが宝暦の“伏見騒動”である。 この光月庵の『寺史』を見ても如何に知恩院側の言い分が言いがかりとしか思えない。木魚念佛が自然の妨害となり自他迷惑であると、此が本根であろう。裏を返せば万を越える多くの信徒が夫々の寺門を離れて圓説の元へと靡いたのである。当然、とくに京市中、伏見市中の他の寺院は檀信徒が離れるのである。経営そのものが危うくなり、存続がたち行かなくなる、教義等とは関係の無い、僧の我欲である。幕府の圧政の中で安穏と日々を過ごしてきた既成の寺院僧侶達の頭の上に突如として新しい念佛勧化の慈雨が天から降って来たのであるが、俗僧達には大雨になったので大慌て、ふためきが手に取る様である。圓説和尚から単なる嫉妬と言われても返す言葉もなかったかであろう。 しかし宗論の公事出入に近世浄土宗史上稀なる事件に元和条目や寛文の諸宗法度にみられる通り、得に異義・異安心の類は、厳しい統制の下におかれたいたので圓説和尚に勝ち目は無かった。
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