古代律令制下の大納言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:34 UTC 版)
天智天皇の下で設置された「御史大夫」や天武天皇の下で設置された「納言」がその前身とも言われるがはっきりしない。「大納言」の名称がはじめて現れるのは飛鳥浄御原令においてであるが、大宝律令・養老律令における大納言と同じものであるかは不明である。 養老律令の職員令では、その職掌を「庶事を参議し、敷奏・宣旨・侍従・献替を掌る」と定めている。大臣とともに政務を議し、宣下と奏上に当たることである。 『令義解』では、大臣が欠員・休暇の際にはその代行をするものと説明している。君主の言葉を臣下に伝え、臣下の言葉を君主に伝える役割であることから、『令集解』では、中国の古典を引いて「喉舌の官」と呼んでいる。 定員は初め4人であったが、慶雲2年(705年)4月、その職務が重大でかつ過密であるため、相応しい人材で定員を満たすことが出来ない、という理由で2人に減員された。この際、大納言の減員を補うものとして定員3人の中納言が設置されている。然しその後権官(権大納言)が置かれるなどして定員は有名無実となった。 摂関政治期には摂関の公達を中心として任じられたが、院政期には院近臣の極官ともなった。大納言在任者は次第に増加し、後白河院政期には10人に達した。後白河の崩御後、九条兼実が摂政に就任して政治の引き締めをはかった際に6人にまで抑えたが、後鳥羽院政期には再び10人に復し、結局これが定員として長く定着することになった。この頃より廷臣の家格が定まり、大納言は羽林家、名家、半家の極官とされた。 南北朝時代以降は正官は任命されず、ほとんどの場合、権官だけが置かれた。最後に正官に任ぜられたのは三条西実枝(天正5年(1577年))である。
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