古代律令期における陣形とは? わかりやすく解説

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古代律令期における陣形

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 03:54 UTC 版)

日本の陣形史」の記事における「古代律令期における陣形」の解説

白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍敗北した日本はこれらの大陸国家対抗する必要性から大陸式の軍隊編成せまられ7世紀後半律令制導入し天武天皇12年683年11月に、「諸国陣法」の詔を発することになる(『日本書紀』二十九)のが、日本における陣形始まりである。さらに持統7年693年12月には「陣法博士等」が諸国教習目的遣わされ記述がある(同巻三十)。全国広めることで大陸国家への侵攻防ごうしたものとみられる結局律令時代海外からの侵攻はなく、陣形実戦使用国内蝦夷向けられたが、軍団制朝廷対し蝦夷散兵戦ったものとみられ、本来、同じ軍団制相手想定した密集隊形蝦夷戦には不向き判断された。これはアテルイ大敗3年後延暦11年792年6月軍団制廃止されたことからもわかる(『続日本紀』)。代わりとして、少数精鋭騎馬兵から成る健児こんでい)」が採用された(従って、陣形から対散兵のための少数騎兵へと移行した)。 天平宝字元年757年)『養老令軍防令には、兵種編成について記述があり、中世前期のような領主編成による連携問題もなかった。 律令期における陣形どのようなのだったのかは、9世紀の『令義解軍防令には「陣列の法」が記されており、それによれば前列先鋒25人(先頭は盾をもつ)で5列、後列次鋒25人(同様に先頭は盾をもつ)で5列の一部50人と定められている。 律令時代対外戦争がなかったこともあり、古代における陣形忘れ去られる

※この「古代律令期における陣形」の解説は、「日本の陣形史」の解説の一部です。
「古代律令期における陣形」を含む「日本の陣形史」の記事については、「日本の陣形史」の概要を参照ください。

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