カバネの形骸化と廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:06 UTC 版)
中世以降、律令体制の瓦解と共に広く「国民」に付与されていた氏が形骸化し戸籍に登録されることもなくなると、代わって字(アザナ)が普及していった。字は源氏の次男であれば源次といった形で設定されたが、他者と重複して判別に困難をきたすようになると、字に本領の地名を含めるようになった(例えば平永衡は伊具郡から字を「伊具十郎」、吉彦秀武は字を「荒川太郎」とした)。地名を字に含める習慣は平安時代中期頃までに一般化したが、時代とともに字は地名部分「字」と太郎や与一などの残りの部分「名(ミョウ)」に分けて考えられるようになり、合わせて「名字(ナアザナ、後にミョウジ)」と呼ばれるようになった。当初は名字は個人レベルで設定されていたが、父系制の確立と平行して一族の間で継承されるものとして固定化した。中央の公家の場合も同様の潮流の中にあったが、有力な氏では、家長の邸宅が名字に用いられた。古代以来の伝統を汲んで氏上(氏長者)が代々別の場所に居を構えた時代には一代毎に名字は変わったが、やがて鎌倉時代頃までには家長が中核となる本題(邸宅)を引き継ぐようになり名字も固定化した(近衛北室町東邸を代々継承する「近衛」名字)、九条富小路邸を代々継承する「九条」名字など)。こうして家長の住居(本題)を中核とする一族(名字族)が形成され、例えば藤原氏からは近衛・九条・三条・勘解由小路・吉田・葉室・西園寺・大炊御門・徳大寺といった固定化された名字が形成されていった(西園寺など一部は邸宅ではなく菩提寺などから名字を形成している)。名字の使用は武士の間でも同様に進み、地方に進出した武士層は開発に携わった土地や本領の地名を名字として一門(名字族)を形成していった。 名字を用いる習慣は鎌倉時代に入る頃には日本に完全に定着し、カバネを冠する古代の氏(ウヂ)とは異なる階層の一族・一門を形成した。それでも、古代以来の氏は人々に意識され続けてはおり、カバネは制度としては明治時代初期まで命脈を保った。かつて多種多様に存在した氏は、平安時代を通じて再編と改名を繰り返し、一方で地方の有力者や出自不明の者が勝手に氏名を名乗る例も続出した。その過程で氏の数は次第に整理され、源氏・平氏・藤原氏・橘氏・紀氏・伴氏・菅原氏・大江氏など10余りにまで数を減らした。とりわけ前四者(源平藤橘)は四姓と呼ばれ、日本における代表的な氏となる。名字の使用が一般化した中世以降も朝廷の冠位を得るためには一定の格を持つ氏を必要としたことから、武家の大名も源平藤橘を始めとした氏名を使用した。特にその使用が継続したのは任官や所領に関わる公文書であり、足利将軍家や徳川家康などもこうした公文書では「源朝臣」を称しており、羽柴秀吉も近衛家の養子に入ることで「藤原朝臣」を称している。 江戸時代には武家や民間では苗字(名字)と「通称」を組み合わせて日常の人名として使用する習慣が一般化し、源や藤原といった氏名(本姓)や実名(名乗)は通常の人名としての機能を喪失していった。ここで言う通称とは苗字と名前で構成される人名のうち下の名前側のことであるが、この通称は官名(播磨守、大和守、図書頭など)、疑似官名(播磨、内膳など、本物の官名の一部を取り出したり、実在しないが官名のように見える名称)、一般通称(名頭に~右衛門、~左衛門、~三郎、~兵衛、などの人名符号を付けたもの)に大別できる。この通称によって「松平土佐守」「南部大膳大夫」「毛利銀三郎」といった人名が構成された。これら一般に使用される苗字と通称は古代以来の姓名(氏名と実名)とは別物として取り扱われた。姓名の「名」にあたる部分が「実名(ジツミョウ)」であり、一般には「名乗(ナノリ)」と呼ばれた。名乗(実名)は「武元」「宣義」「光久」など漢字二字で構成される。これらの「名乗」は非常に丁寧な書面に付される「名乗書判(花押と共に書かれる本人のサイン)」にのみ使用され、「実名」であるにもかかわらず人名として使用されることはなくなっていた。 このように氏名と実名が人名として日常的に使用されることがなくなったため、氏名に冠されるカバネが使用される機会も無くなっていた。一方で、京都の朝廷においてはあくまで古代以来の氏名と実名こそが正式な人名であるという認識が維持され続けた。武家が人名として「官名」を使用するのと同じように「左大臣」「大学頭」といった官名が通称として使用され、一条左大臣のように苗字と通称を合わせたものが事実上の「人名」として使用されたが、朝廷の公家の間では苗字(名字)は「称号」と呼ばれ、これを正式な「人名」とはみなさなかった。朝廷の公式の文書では近衛・一条・鷹司などの「称号」ではなく藤原・源・平・橘などの氏名が使用され、下の名も「左大臣」「大学頭」といった通称ではなく「信堅」「家厚」などの漢字二字の実名があくまでも正式な「人名」として扱われた。このような朝廷の限られた正式の署名では「藤原朝臣」などのように氏名にカバネを付加する習慣が残存した。ただし、氏名を使用する場合でもカバネ(江戸時代の故実書等では「尸」と書かれた)を省略する場合が多かった。江戸時代に「姓名」と言った場合には氏名と実名を合わせたもの(藤原道長、源家康など)を指すため、カバネを表記する書式(藤原朝臣道長、源朝臣家康)は「姓尸名」として区別する場合が多い。このような朝廷と一般社会における人名認識の不一致は既に戦国時代には出来上がっており、天正年間には互いに実名を呼びあう公家の風習が奇異なものとして武家側に記録されている。 朝廷と、武家および一般社会の間にあった人名に関する認識相違は明治維新の後、明治政府によって人名に関する規定が整備される中で混乱の元となった。明治政府の初期の中心人物には公卿出身者が多数おり、また形式上要職には公家の者が当てられることも多かった。彼らは朝廷の常識に基づいて人名管理を行うことを志向し、復古的な規定が制定された。明治2年、明治政府は「官位記」の書式を制定に伴い、叙任にあたって人名は全てカバネを含めた「姓尸名」を使用して古代以来の「位署書」(官位・姓・尸・名の順で表記される書式)で記すことを定めた。この結果、初期の明治政府の公文書では大村益次郎は「藤原朝臣永敏」、大久保利通は「藤原朝臣利通」、大隈重信は「菅原朝臣重信」、山縣有朋は「源朝臣有朋」、伊藤博文は「越智宿禰博文」など、姓(カバネ)と諱(いみな、実名)によって表記することが通例とされた。これらの「朝臣」「宿禰」の真偽はともかくとして、天皇及び朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が用いられたものである。 しかし、このような「人名」の取り扱いは当時の一般の慣習からかけ離れており、大きな混乱をもたらした。明治3年に明治政府が諸藩に職員簿を「苗字・通称・姓(氏名)・実名」の書式で提出するよう求めた際には、姓尸不分明(氏・カバネが不明)の職員はどうすれば良いのか、また通称と実名が同一の場合の体裁が不格好などの問題が生じ、人名管理は著しく煩瑣なものとなった。その後、明治政府内で建前上擁立されていた旧公卿らが次第に要職を離れ、実務を担っていた薩長土肥の元藩士らが名実ともに官職を担うようになるにつれ、人名に関する復古的な潮流も急速に流れを変えた。 明治4年10月12日(1871年11月24日)、姓尸不称令(せいしふしょうれい、明治4年太政官布告第534号)が出され、一切の公文書に「姓尸」(姓とカバネ)を表記せず、「苗字實名」のみを使用することが定められた。これに先立ち、明治政府は、明治3年(1870年)の平民苗字許可令(明治3年太政官布告第608号)、明治5年(1872年)の壬申戸籍編纂の二段階によって、「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」の一元化を行い、明治維新以後の氏・姓・通称・実名をめぐる混乱を収拾した。これによって「藤原」などの旧来の氏、「朝臣」などのカバネは、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来のカバネは、それと一体化していた旧来の氏と共に、法的根拠をもって一本化された「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立されたのは、明治8年(1875年)の平民苗字必称義務令(明治8年太政官布告第22号)によってである。
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