鎌倉時代の政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 14:48 UTC 版)
鎌倉時代は武士が政権を獲得した時代と一般には認識されているが、依然として京都は鎌倉を凌ぐ経済の中心地であり、朝廷や公家、寺社の勢力も強力だった。武家と公家・寺家は支配者としての共通面、相互補完的な側面、対立する面があった。よって朝廷と武家の二元的支配から承久の乱を通して、次第に幕府を中心とする武士に実権が移行していく時代とみるのが適切であろう。 鎌倉幕府は当初、将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家(摂家将軍)、後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除すると、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして実権は、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏へ移っていった。更に執権北条時頼が執権引退後も執政を行ったことから、幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中。執権在職者も幕府最高権力者というわけではなく、宮騒動、二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などの傍流や御家人は排除された(得宗専制)。 北条氏の功績としては御成敗式目の制定が挙げられる。これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。先の北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。北条貞時の代になると御内人の権力は増長し、得宗の権威すら凌ぐようになり、貞時は平禅門の乱で平頼綱を討ち得宗へ権力を戻そうとするも、末期には政治への無関心から再び御内人が実権を握った。 また、貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。1284年に弘安徳政、さらに1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
※この「鎌倉時代の政治」の解説は、「鎌倉時代」の解説の一部です。
「鎌倉時代の政治」を含む「鎌倉時代」の記事については、「鎌倉時代」の概要を参照ください。
- 鎌倉時代の政治のページへのリンク