鎌倉時代の村上氏の立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:16 UTC 版)
「信濃村上氏」の記事における「鎌倉時代の村上氏の立場」の解説
同じ河内源氏出自で平家追討に功績があったものの、源頼義・源義家父子の系統ではないため守護などへの登用はなく[要出典]、一御家人という地位に甘んじることになった。鎌倉幕府の実権が北条氏の手に移ると、北条氏と血縁のない村上氏は鎌倉幕府の中枢からは忘れられていった[要出典]。しかし、建治元年(1275年)5月六条八幡新宮造営費用が全国の御家人に求められると村上判官代跡(村上基国の後裔?)が5貫文、村上馬介(村上経業の後裔?)が5貫文、庶流の出浦氏(村上成国の後裔)が3貫文を納めた。 その間、村上氏は下記のように家督を相続していった。 村上為国 - 信国 - 安信 - 信村 - 胤信 - 信泰
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