鎌倉時代に進んだ神仏習合とは? わかりやすく解説

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鎌倉時代に進んだ神仏習合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:33 UTC 版)

伏見稲荷大社」の記事における「鎌倉時代に進んだ神仏習合」の解説

しかし、山城国風土記よりも後の鎌倉時代成立とみられる年中行事秘抄』では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかな所見無し」とあり、確かな由緒不確かだとしている。 この頃になると、神仏習合進み神社祭神も本地仏が解釈されるうになるまた、それまで三座だった祭神が五座となる。前出の『稲荷大明神流記』には、 一、大明神本地十一面。(上御前是也) 二、中御前本地千手。(大明神之当御前也) 三、大多羅之女。本地如意輪。(下御前是也。大明神之前御前也) 四、四大神。本地毘沙門。(中御前御子。即同宿御前) 五、田中本地不動。(先腹大多羅女郎子也) とある。 このような仏教系伝承に、後に伏見稲荷眷属とされるに関する伝承現れている。 時は平安初期弘仁年間810年 - 824年)のこと、平安京北郊船岡山の麓に、全身に銀の針を並べ立てたような年老いた白狐夫婦が棲んだ。夫婦心根善良で、常々世のため人のため尽くしたい願っていたが、という畜生の身であっては、願いを果たすべくもない。そこで、夫婦意を決し五匹の子伴って稲荷山参拝し祈った。「今日より当社御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」すると、たちまち神壇鳴動し稲荷神厳かな託宣くだった。「そなたたちの願い聞き許す。されば、今より長く当社仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」明神からは男はオススキ、女狐はアコマチという名を授けられたという。 — 真雅稲荷流記』他 また中国から派生した思われるに関する寓話(「九尾の狐」や「玉藻前」など)から、次第に仏の像容白狐にまたがる女天形と解釈して日本独自形容持った荼枳尼天併せた。由来について様々に解釈説話がある。 実は、これらの説話は、先の東寺開いた空海縁起合わせ平安時代初期舞台とする説話が、鎌倉時代から室町時代初期の頃世に広まりはじめてきていることには留意すべきである空海興した真言密教この頃には熊野修験道とともにすでに広く認知されていたが、同じく隆盛した比叡山天台宗密教とは内容異なるとして、「台密」が京の鎮守であったに対して東密」はこの時代以降に「教王護国寺」の名を称するうになる(「密教」の項を参照)。護国として実際に帰依した天皇皇族多く増えすぎた貴族没落して都落ちし、緩みはじめた律令背景郡司郷司として、後には守護地頭などとして荘園地主となり、武家興した擁したりして台頭し始め時期にあたる。これに呼応するように全国熊野社稲荷社勧請されて急速に広まった時期にもあたる。これらの説話は講を通して武士作人といった民衆にも広まり祖霊の塚に稲荷社建てた眷属である併せていくことになる。

※この「鎌倉時代に進んだ神仏習合」の解説は、「伏見稲荷大社」の解説の一部です。
「鎌倉時代に進んだ神仏習合」を含む「伏見稲荷大社」の記事については、「伏見稲荷大社」の概要を参照ください。

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