鎌倉時代に進んだ神仏習合
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「伏見稲荷大社」の記事における「鎌倉時代に進んだ神仏習合」の解説
しかし、山城国風土記よりも後の鎌倉時代の成立とみられる『年中行事秘抄』では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあり、確かな由緒は不確かだとしている。 この頃になると、神仏習合が進み、神社の祭神にも本地仏が解釈されるようになる。また、それまで三座だった祭神が五座となる。前出の『稲荷大明神流記』には、 一、大明神。本地十一面。(上御前是也) 二、中御前。本地千手。(大明神之当御前也) 三、大多羅之女。本地如意輪。(下御前是也。大明神之前御前也) 四、四大神。本地毘沙門。(中御前御子。即同宿中御前) 五、田中。本地不動。(先腹大多羅之女郎子也) とある。 このような仏教系の伝承に、後に伏見稲荷の眷属とされる狐に関する伝承が現れている。 時は平安初期の弘仁年間(810年 - 824年)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、全身に銀の針を並べ立てたような年老いた白狐の夫婦が棲んだ。夫婦は心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていたが、狐という畜生の身であっては、願いを果たすべくもない。そこで、夫婦は意を決し、五匹の子狐を伴って稲荷山に参拝し祈った。「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神の厳かな託宣がくだった。「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」明神からは男狐はオススキ、女狐はアコマチという名を授けられたという。 — 真雅『稲荷流記』他 また中国から派生したと思われる狐に関する寓話(「九尾の狐」や「玉藻前」など)から、次第に仏の像容を白狐にまたがる女天形と解釈して、日本独自の形容を持った荼枳尼天を併せた。由来についても様々に解釈や説話がある。 実は、これらの説話は、先の東寺を開いた空海の縁起と合わせ、平安時代初期を舞台とする説話が、鎌倉時代から室町時代初期の頃に世に広まりはじめてきていることには留意すべきである。空海の興した真言密教はこの頃には熊野の修験道とともにすでに広く認知されていたが、同じく隆盛した比叡山の天台宗の密教とは内容が異なるとして、「台密」が京の鎮守であったのに対して「東密」はこの時代以降に「教王護国寺」の名を称するようになる(「密教」の項を参照)。護国として実際に帰依した天皇や皇族が多く、増えすぎた貴族が没落して都落ちし、緩みはじめた律令を背景に郡司、郷司として、後には守護や地頭などとして荘園地主となり、武家を興したり擁したりして台頭し始める時期にあたる。これに呼応するように全国に熊野社や稲荷社が勧請されて急速に広まった時期にもあたる。これらの説話は講を通して武士や作人といった民衆にも広まり、祖霊の塚に稲荷社を建てたり眷属である狐を併せていくことになる。
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