鎌倉時代の甲斐源氏とは? わかりやすく解説

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鎌倉時代の甲斐源氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:42 UTC 版)

甲斐源氏」の記事における「鎌倉時代の甲斐源氏」の解説

『吾妻鏡』承久記』に拠れば承久3年1221年5月15日には後鳥羽上皇北条義時追討院宣下し甲斐源氏武田小笠原両氏にも院宣届けられたという。承久の乱において同月幕府側は御家人参集させ京へ向けて軍勢発し甲斐源氏武田信光小笠原長清東山道大軍将を任命されており、東山道軍は主に甲斐信濃武士構成されている。 承久の乱平定されると公卿の内、前権中納言藤原光親を信光が預かり源有雅長清が預かる。『吾妻鏡』によれば、光親は同年7月12日鎌倉連行され途中駿河国車返において鎌倉使による命令伝えられ甲斐籠坂峠処刑された。一方、有雅は甲斐稲積荘古瀬において処刑されている。論功行賞においては甲斐源氏の一族畿内西国守護職補任され、甲斐源氏西国進出きっかけとなった

※この「鎌倉時代の甲斐源氏」の解説は、「甲斐源氏」の解説の一部です。
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