鎌倉時代の甲斐源氏
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『吾妻鏡』『承久記』に拠れば、承久3年(1221年)5月15日には後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下し、甲斐源氏の武田・小笠原両氏にも院宣が届けられたという。承久の乱において同月に幕府側は御家人を参集させ京へ向けて軍勢を発し、甲斐源氏の武田信光・小笠原長清は東山道大軍将を任命されており、東山道軍は主に甲斐・信濃の武士で構成されている。 承久の乱が平定されると公卿の内、前権中納言・藤原光親を信光が預かり、源有雅を長清が預かる。『吾妻鏡』によれば、光親は同年7月12日に鎌倉へ連行される途中、駿河国車返において鎌倉使による命令を伝えられ、甲斐籠坂峠で処刑された。一方、有雅は甲斐稲積荘古瀬において処刑されている。論功行賞においては甲斐源氏の一族は畿内・西国の守護職に補任され、甲斐源氏の西国進出のきっかけとなった。
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