町年寄の起こりと推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
鎖国以前の長崎において、朱印船貿易に携わり、長崎の町の富裕層でもあったリーダー的な集団を頭人(とうにん)と呼んでいた。頭人の発祥は流浪の武士とも長崎甚左衛門の家士とも言われている。頭人は、腕力が強く、リーダーとしての資質があり、また商才のある者たちが、長崎で頭角を現し、イエズス会領・豊臣秀吉の直轄領・徳川幕府の天領と時代の変化に対応しながら、長崎地下人(じげにん)達のリーダー格となって長崎を治めてきた。この頭人達が、後の町年寄の先祖である。 豊臣秀吉によって長崎奉行に任ぜられた唐津城主寺沢志摩守広高が、有力な貿易商であり町衆の指導層でもあった高木勘右衛門了可・高嶋(高島)了悦・後藤惣太郎宗印・町田宗賀を頭人に取り立て、町政の実務を任せた。 頭人が町年寄と改められたのは文禄元年(1592年)のことであった。そして、地租を免じられた内町を町年寄が治め、それ以外の外町を長崎代官の村山等安が支配した。 慶長8年(1603年)正月、家康は新年慶賀のため上京した村山等安とイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父に対して、等安と町年寄4人を改めて長崎の首長に任じて長崎の統治を委ね、ロドリゲスにも長崎の支配管理のために市政に参与することを求めたという。これにより、秀吉の没後も長崎内町は町年寄が、外町を代官の村山が治める運営方式は引き継がれることとなった。 当初は頭人出身の高木・高嶋・後藤・町田の4人体制だった。寛永年間に町田家が没落した後は高木彦右衛門永貞が町年寄に就任し、元禄10年(1697年)に高木彦右衛門貞親が唐蘭商売元締に任命されると、外町常行司の薬師寺又三郎種政が町年寄に任ぜられた。元禄12年(1699年)に内町と外町の区別が廃止された時に外町常行司の福田伝兵衛重好と久松善兵衛忠辰が加えられて6人制となった。さらに文政5年(1822年)以降は、高木・高島(2家)・後藤・薬師寺・福田(2家)・久松(2家)の9人制となった。 彼らの受用高は70俵5人扶持(受容銀は12 - 29貫目)で、大村町の高島家や西浜町の久松家などは、1000坪以上の大邸宅であった。また、長崎会所調役を勤める場合は他に5人扶持を、年番となった場合は受用銀を25貫目、添年番は受用銀10貫目が支給された。
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