町年寄の職務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
町年寄は町役人の筆頭であり、その業務は多岐にわたった。 町年寄の屋敷地は幕府から拝領されたものであり、奈良屋・樽屋・喜多村でそれぞれ本町一丁目・二丁目・三丁目の本町通りに面した角地にあった。武家と同様に住居は役宅を兼ねており、これを町年寄役所と呼び、様々な執務を執り行った。
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町年寄の職務
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長崎町年寄の役務は、長崎奉行の補佐と、長崎の町役人として市政・貿易業務を専業とする乙名の選任、そして乙名以下の地役人を監督して町政や外交・貿易の実務を処理することであった。乙名は元亀2年(1571年)、長崎の町割りを始めたころに、頭人ないしは頭人の配下であった者が、各町ごとに1人ずつ任命された役職である。 長崎の地役人達は貿易業務を主とした仕事に専従しており、これが商売をしているかたわらで町政の業務を行っていた他の町の町役人との大きな違いである。かつては朱印船貿易家だった町年寄も、商人という側面が縮小し、役人としての役割が拡大するようになって長崎独自の地役人となっていった。 当初は、町年寄の中の1名が年番となってその年の業務の中心的な役割を果たし、添年番がその補佐にあたったが、元禄期に年番は2人制になり、1人が貿易・商売を、もう1人が地方や寺社方の支配を行い、他の町年寄は普請方・銅方・銭座・俵物諸色の支配を分掌するようになった。 それ以外には、年頭の江戸参府と白書院での将軍への拝謁、奉行の市中巡検の際の供奉、オランダ船の出入りの見届け、その献上物の選定などであり、この他に全員が行うものとして、長崎会所の引き継ぎ、出火時と諏訪神社神事に際しての供奉などがあった。 また、長崎では寛永5 - 6年(1628 - 1629年)ごろから、毎年正月3日に踏み絵が行われた。この踏み絵は正月の行事で、各町年寄の屋敷で行われた。4日からは市中での踏み絵が開始され、9日までの6日間、出島町を除く79町で行われた。踏み絵は、町年寄から借家人、さらには遊女に至るまで、長崎の住民全てに対して行われた。この行事は、安政5年(1858年)に廃止になるまで、継続された。 長崎会所での業務は、年番の町年寄と上席の福田氏が毎日八つ時(午後2時)、他の町年寄は正午までの勤務であった。後になって追加された職務には、奉行所からの命令伝達、諸役人の退役・養子願の審査とその上申、長崎への新規移住者の踏絵執行、惣町の戸数・人口・宗旨その他の奉行所への報告など、長崎の町政や貿易業務に関する種々の業務があった。 出島のオランダ商館にも公用で出入りし、長崎ではオランダ正月と呼ばれた西暦の1月1日には、通詞や出島乙名などと共に商館に招かれた。 他にも、他所の人間が長崎で罪を犯したなどの場合に、その吟味のため盗賊方懸りの乙名やその手付が他領へ赴く際には、町年寄の印鑑を貰い、相手の村役人にもあらかじめそれを見せて、身分を明らかにしておく仕来りがあった。また、皮屋町の部落を指導監督する組頭の任免の際には、その度ごとに牢守役に当る者が年番町年寄に届けて了解を得ることになっていた。
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