将軍への拝謁とは? わかりやすく解説

将軍への拝謁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/18 00:43 UTC 版)

レイニール・ファン・ツム」の記事における「将軍への拝謁」の解説

ツム12月31日に、同僚オランダ人6名と共に船で長崎出発した江戸には2月7日到着している。2月13日徳川家光拝謁したが、眼鏡拡大鏡レンズ薬品などを献上している。前日2月12日には、大目付井上政重面会しているが、ツムオランダポルトガルとの休戦成立したことに関して質問があると予想していた。そのことはすでに通詞伝えてあったが、通詞はこれを幕閣伝えていなかった。このためツム予想反して話題1643年発生したブレスケンス号事件に関するものとなった。 これは日本の東方にあるとされた金銀島探検に出かけたブレスケンス号が、航海途中南部藩山田寄航し、そこで船長のスハープ以下10人が抑留され事件である。彼ら10人はオーフルトワーテルとヤン・ファン・エルセラックによって釈放されていた。通詞意見では日本側はブレスケンス号乗員釈放対す謝意然るべき表明、すなわち特使派遣期待しているとのことであった(この特使1650年派遣される)。 さらに、将軍側近久世広之(後老中)、牧野親成(後京都所司代)、江戸在府長崎奉行馬場利重から、ポルトガル日本派遣した使節のことを知っているかと尋ねられた。ツムは「知っているが、彼らが(危険を冒してここまでくる勇気があるかどうか分からない」と答えた3月8日に、井上ツム対しオランダはブレスケンス号船員釈放格別な配慮よりものであることを十分理解していない」と述べた。またスペイン・ポルトガルいかなる協力もしないようにとも伝えたツム期待した輸出許可はじめとする嘆願には答え得られぬまま、3月10日江戸発った4月13日長崎に戻ると、輸出許可得られたことを知った。この秋、通詞通して再三価格品質に関する交渉行ない棹銅と板輸出実現したまた、通詞から南京が清軍に占領され鄭芝龍幕府援軍要請したことを伝えられた。後、幕府援軍派遣拒否している。長崎南京からのジャンクが2隻入港したが、船員たちは清に忠誠を誓うことを意味する辮髪強要されていた。幕府は清との通商認めていなかったため、中国商人オランダとの取引希望した同年末、幕府は清との通商認めたため、この問題回避された。 1646年10月7日ツム後任ウィレム・フルステーヘン商館長の職を委ねた。3週間後に日本離れヨーロッパ戻りコーンジャムに住んだ。そこで1648年結婚し1654年にはイルストに移った。そこで市議会議員になり、フリースラント収支監督するについた

※この「将軍への拝謁」の解説は、「レイニール・ファン・ツム」の解説の一部です。
「将軍への拝謁」を含む「レイニール・ファン・ツム」の記事については、「レイニール・ファン・ツム」の概要を参照ください。

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