将軍への擁立と堺公方の樹立とは? わかりやすく解説

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将軍への擁立と堺公方の樹立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)

足利義維」の記事における「将軍への擁立と堺公方の樹立」の解説

大永6年1526年7月細川高国家臣香西元盛細川尹賢讒言に応じて殺害すると、元盛の兄弟である波多野元清柳本賢治らが高国から離反し内紛発生した。これにより、新たな戦乱始まり義晴幕府動揺した。そして、長らく阿波逼塞していた義維、細川晴元 (澄元の嫡子当時六郎)及びその重臣である三好元長らはこれを好機とらえた11月19日三好元長細川晴元側近可竹軒周聡阿波より連署で、波多野清秀が義維方に帰参したことを波多野次郎伝えており、畿内反高国方連絡取り合っている。 12月14日四国衆や畠山式部少輔畠山上総などの軍勢7、8千が和泉の堺に渡海した。 大永7年1527年2月、義維は高国対立していた細川晴元三好元長擁立され、阿波から淡路に兵を勧めたまた、晴元方の細川澄賢三好勝長、三好政長らが堺を経て上京した。このとき、義維・晴元方は和泉松浦守因幡の山名誠通、伊勢長野稙藤らと連携し義晴高国方に属す但馬山名誠豊近江六角定頼伊勢北畠晴具牽制する戦略進めていた。 2月13日晴元方が高国方を桂川原の戦い破り義晴高国を京から近江坂本放逐した3月22日晴元と義維は三好元長奉じられ、堺へと入ったその後、義維は入京せず、堺の四条道場引接寺滞在しながら、晴元とともに京都支配した。そのため、義維とその政権現在の戦国史において、堺公方(または堺大樹堺幕府)と呼ばれている。 6月17日、義維は朝廷対し従五位下左馬頭への叙任請願した左馬頭足利将軍家家督継承者、あるいは後継者任じられる官職である。 7月13日、義維は朝廷から従五位下左馬頭叙任された。この叙任によって、義維は将軍就任前提を得る形となったまた、義維は東坊城和長撰進によって、名を「義賢」から「義維」に改めた。 これにより、義維は当時将軍意味する武家」、「公方」、「大樹」と呼称され、畿内には事実上二人将軍存在することになった。義維は既に前年12月より、斎藤基速と斎藤誠基を中心に松田光綱、松田光致、飯尾為隆、治部直前らによる奉行人連署奉書発給し義晴同様に畿内支配にあたろうとした。義維は京都に入ることはなかったが、京都支配するため、奉行人連署奉書発給し各種訴訟嘆願対応している。 だが、京都支配したのは義維を擁した晴元家臣であり、義維自身支配脆弱であったまた、京都古来より攻めやすく守りにくい地であり、義晴とその陣営存在する限り、すぐに奪還される可能性もあった。実際義晴京都回復するため、3月16日阿波海部郡海部元親に忠節命じたほか、同日豊後大友義鑑5月19日には土佐一条房家対し阿波攻め入るよう命じている。

※この「将軍への擁立と堺公方の樹立」の解説は、「足利義維」の解説の一部です。
「将軍への擁立と堺公方の樹立」を含む「足利義維」の記事については、「足利義維」の概要を参照ください。

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