新たな戦乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 03:49 UTC 版)
応仁元年(1467年)、道真が長年仕えた持朝が河越で死去した。家督は孫の政真が継ぎ、道真は政真に従って武蔵五十子陣(埼玉県本庄市)で古河公方と対陣した。資長は江戸城にあって武蔵、相模を固めた。 文明5年(1473年)、古河公方の軍勢が五十子陣に攻めかかり、政真が討ち死にしてしまう。資長ら老臣達の評定によって政真の叔父定正が家督に迎えられた。 文明9年(1477年)、山内家重臣の長尾景春(景仲の孫)が古河公方と結んで反乱を起こして、五十子陣を急襲した。上杉軍は大敗を喫し、五十子を守っていた山内家当主上杉顕定、定正、道真は上野へ敗走する。(長尾景春の乱) 関東の多くの国人が景春に呼応して、両上杉家は危機に陥った。これを救ったのが道真の子の道灌(資長の法名)で、石神井城の豊島氏をはじめ各地の景春方を次々と打ち破る。道真は上野阿内城(群馬県前橋市)にあって顕定、定正を補佐した。 道灌と顕定、定正は合流することに成功して、用土原の戦いで大勝して景春を封じ込めたが、古河公方が本格的に参戦して乱は長期化の様相を見せた。文明10年(1478年)道灌と道真は顕定の反対を押し切って、定正を河越城に帰還させ、道真も河越城に入った。景春が河越城へ攻め寄せるが定正と道真はこれを撃退している。 長年の戦に飽いた古河公方は和議を望むが、景春はなおも戦うとした。道灌は景春方を次々と打ち破り、文明12年(1480年)までにほぼ乱の平定に成功した。 文明14年(1482年)、古河公方と両上杉家との間で和議が成立して、享徳の乱は終わった。
※この「新たな戦乱」の解説は、「太田資清」の解説の一部です。
「新たな戦乱」を含む「太田資清」の記事については、「太田資清」の概要を参照ください。
- 新たな戦乱のページへのリンク