町年寄の収入と拝借金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
町年寄は惣町の支配を行うにあたり、拝領した屋敷地の表側を他の町人に貸し、その地代収入を職務に使う経費としていた。また、古町町人から「晦日銭」と呼ばれる金を受取っている。これらの収入は寛政元年(1789年)では、各家600両前後、計1840両ほどとなっている。本町以外にも3家でそれぞれ拝領地を賜り、そこの地代収入も得ていた。 その地に作られた蔵屋敷を倉庫として貸していたが、享保の改革によって町に土蔵造りが増えたために利用者が減り、また享保14年(1729年)の地代引下げの町触が出されるなど、時代によって収入が減ることもあり、また火災のため拝領地の経営が順調にいかないことも多かった。 この他に、樽屋は枡座を兼ねており、枡の販売代金を収入として得ている。また、神田・玉川両上水の事務を担当していた時期には各100俵ずつの扶持米を、寛政以後には札差仕法改正御用掛として100俵の扶持米が支給されていた。 業務のための経費が不足した時、町年寄は幕府に「拝借米金(べいきん)」を願い出た。初期は「拝領金」であって返済する必要は無く、寛永14年(1637年)、明暦3年(1657年)、延宝元年(1673年)にはそれぞれ各500両ずつが下賜された。特に明暦3年(1657年)は明暦の大火の後のことでもあり、500両の他に銀20貫目(約333両余)ずつが支給された。しかし、宝永7年(1710年)に喜多村が願い出た時は米1千俵の「拝借」であった。さらに、享保6年(1721年)には、それ以前の拝借米が返納されていないことを理由に、拝借米100俵のみとなった。以後、天明6年(1786年)までの65年間ほどは、100俵の借米が恒例となった。文政年間以後については、拝借米が拝借金に変わっている。町年寄達の拝領屋敷経営が順調にいかないことが多かったためか、拝借金の返済もその多くが滞っていた。
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