町年寄と将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 01:48 UTC 版)
江戸時代の初期には、町年寄をはじめとした江戸の町人たちと将軍との接触があった。 寛永11年(1634年)7月、徳川家光が上洛した際に、江戸の町年寄たちが「御祝儀」として供をし、樽屋藤左衛門が御目見得を仰せ付けられたことが記録されている。 喜多村家の由緒書にも、町年寄2代目の彦右衛門が家光に水泳や鼓の稽古をつけており、上洛の時、徳川家光が富士川を渡る際に先導をつとめたという記述が残されている。 このような将軍との交流は、時代を経るに連れて無くなっていったが、将軍の代替りに伴う御礼出頭と正月の年頭御礼は毎回行われた。 元和年間(1615 - 24)から定例になったと言われる正月三日の御目見得では、大坂惣年寄や堺・京都の町年寄など他国の町人達も共に拝謁するが、その際江戸の町年寄は全国の町人の筆頭として列席した。また、拝謁は江戸城の帝鑑の間で行われるが、敷居内に進めるのは町年寄のみで、他の御用達町人は敷居外での拝謁とされた。 将軍は正月に上野東叡山寛永寺と芝三縁山増上寺への墓参を執り行うが、その際の御目見得も定式化されたものであった。他にも法事のための市中への御成や日光社参の時にも、町年寄たちは道筋で御目通りすることが許されていた。
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