秀吉への帰順と周辺勢力との抗争とは? わかりやすく解説

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秀吉への帰順と周辺勢力との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/08 11:24 UTC 版)

小野寺義道」の記事における「秀吉への帰順と周辺勢力との抗争」の解説

天正13年1585年)、同盟勢力である庄内平野大宝寺氏が、最上義光侵攻を受けると、これに乗じて最上領への侵攻開始した。ところが天正14年1586年)、最上義光戸沢盛安らが領内への侵攻始め天正15年1587年)には盛安と和睦し仙北七人衆したがえ秋田郡秋田実季戦っている。 天正18年1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めに参陣し秀吉謁見して、所領安堵された。しかし、その後奥州仕置において自領内仙北一揆起こったのを咎められ天正19年1591年)に所領3分の1没収され上浦郡31600石を安堵された。没収され雄勝郡最上氏領土とされたが、父祖伝来の地であったため義道はこれを不服とし、雄勝郡支配継続しようとしたその後豊臣氏従い同年には九戸政実の乱従軍、上法寺口において戦功があった。文禄元年(1592年)、文禄の役においては肥前国名護屋に参陣し、その功績から叙位任官した文禄4年(1595年)、最上義光謀略によって家臣八柏道為誅殺その後、義光は雄勝郡支配するため楯岡城主の楯岡満茂率い軍勢小野寺七郎孫作兄弟が守る湯沢城差し向けた湯沢城落城した事を聞いた岩崎城主の岩崎義高は義道に援軍要請したが、同日今泉城角間城、鍋倉城植田城、新田目城が最上軍猛攻にあったため義道は岩崎城方には手が回らず、ほとんど援軍出せなかった。その後前森城主原田大膳岩崎城夜襲をかけて湯沢城落城した。慶長2年(1597年)、義道は湯沢城奪還図り大島原の合戦起きる。しかし、湯沢城楯岡満茂の策にかかり小野寺軍は撃退された。逆に最上軍侵攻を受け、植田今泉鍋倉荒田目・馬倉などを失った敗戦続き領地蚕食され小野寺氏であったが、最上氏下っていた庶弟・西馬音内茂道とその子式部大輔頼道奇襲により庄内囚われていた人質救出河熊鍋倉植田新田の城を奪還することに成功した。この功により茂道は西馬音内城主への復帰許されている。

※この「秀吉への帰順と周辺勢力との抗争」の解説は、「小野寺義道」の解説の一部です。
「秀吉への帰順と周辺勢力との抗争」を含む「小野寺義道」の記事については、「小野寺義道」の概要を参照ください。

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