秀吉への帰順と周辺勢力との抗争
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「小野寺義道」の記事における「秀吉への帰順と周辺勢力との抗争」の解説
天正13年(1585年)、同盟勢力である庄内平野の大宝寺氏が、最上義光の侵攻を受けると、これに乗じて最上領への侵攻を開始した。ところが天正14年(1586年)、最上義光や戸沢盛安らが領内への侵攻を始め、天正15年(1587年)には盛安と和睦し、仙北七人衆をしたがえて秋田郡の秋田実季と戦っている。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めに参陣し、秀吉に謁見して、所領を安堵された。しかし、その後の奥州仕置において自領内で仙北一揆が起こったのを咎められ、天正19年(1591年)に所領の3分の1が没収され、上浦郡3万1600石を安堵された。没収された雄勝郡は最上氏の領土とされたが、父祖伝来の地であったため義道はこれを不服とし、雄勝郡の支配を継続しようとした。 その後も豊臣氏に従い、同年には九戸政実の乱に従軍、上法寺口において戦功があった。文禄元年(1592年)、文禄の役においては肥前国名護屋に参陣し、その功績から叙位・任官した。 文禄4年(1595年)、最上義光の謀略によって家臣・八柏道為を誅殺。その後、義光は雄勝郡を支配するため楯岡城主の楯岡満茂が率いる軍勢を小野寺孫七郎・孫作の兄弟が守る湯沢城に差し向けた。湯沢城が落城した事を聞いた岩崎城主の岩崎義高は義道に援軍を要請したが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城、植田城、新田目城が最上軍の猛攻にあったため義道は岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍を出せなかった。その後、前森城主の原田大膳が岩崎城に夜襲をかけて湯沢城は落城した。慶長2年(1597年)、義道は湯沢城奪還を図り大島原の合戦が起きる。しかし、湯沢城主楯岡満茂の策にかかり小野寺軍は撃退された。逆に最上軍の侵攻を受け、植田・今泉・鍋倉・荒田目・馬倉などを失った。 敗戦続きで領地を蚕食される小野寺氏であったが、最上氏に下っていた庶弟・西馬音内茂道とその子式部大輔・頼道が奇襲により庄内に囚われていた人質を救出、河熊・鍋倉・植田・新田の城を奪還することに成功した。この功により茂道は西馬音内城主への復帰を許されている。
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