秀吉への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 13:38 UTC 版)
天正10年(1582年)、織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返ったため、毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われて一時は秀吉の元に身を寄せた。なおも兄の得居通幸が鹿島城に拠って戦い抜き、羽柴方として留まった通総は秀吉と毛利氏との和睦後に旧領に復帰した。 また、近年の説として通宣の後を継いだ河野牛福(後の伊予守通直)は実は通総の父である村上通康と側室とみられる宍戸隆家の長女(毛利元就の外孫)との間の子であるという見解が浮上している。この説によれば通康の没後に毛利氏が実子のいない河野通宣の後室に未亡人となった宍戸隆家の娘を入れてその連れ子である牛福を養嗣子に立てたというもので、毛利氏からみれば河野宗家の血を引く弾正少弼通直の娘及びその所生である通総の存在は「反・牛福」に擁される可能性がある警戒の対象であり、通総は異母弟である河野通直(牛福)とその後ろ盾である毛利氏から身を守るために織田陣営に飛び込んだとする。 秀吉は三島村上氏の中でも早くから味方についた通総を「来島、来島」と呼んで重用したため、姓を村上から来島に改めた。天正13年(1585年)の秀吉による四国攻めでは小早川隆景の指揮の下に伊予で先鋒を務め、天正の陣で旧主家の河野氏を攻めた。その戦功により伊予風早郡1万4000石を与えられて大名となった。その後も天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加した。年代は不明だが、豊臣姓を下賜されている。
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