有馬晴信の台湾偵察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:41 UTC 版)
「村山等安の台湾出兵」の記事における「有馬晴信の台湾偵察」の解説
豊臣秀吉の没後、徳川家康により開かれた江戸幕府も台湾に関心を持っていた。1609年(慶長14年)2月、幕府は有馬晴信に対して台湾の偵察を命じた。幕命では、シャム、カンボジアなど遠方の国でさえ日本に対して「御礼」をしているのに、それらの国からみても近い高山国が日本と通好しようとしないことは不届きであると非難した上で、台湾への出兵が示唆されていた。 その上で幕府は、高山国が日本側の要求を受け入れた場合は同国の要望に応じるべきであること、そして高山国の人々が求める物資を供給して日本に対しての親近感を高めるように指示した。つまり幕府としては日本が高山国の宗主国として振舞うことを念頭においていた。幕府は台湾を明との出会貿易の拠点にしようと考え、首尾よく偵察が成功して高砂国との通好が始まったら、明船と日本船が台湾で出会貿易を開始するように指示し、そのために台湾の良港の調査、そして台湾を隅々まで偵察して様子を絵図として献上するように命じた。またもし偵察の目的が果たされなかった場合には、台湾の住民を連行するように指示していた。 幕府の命を受けた有馬晴信は千々岩采女を台湾に派遣した。しかし秀吉の高山国招致と同じく、当時の台湾には国のような政治的まとまりが形成されていなかったため、幕命を受けた有馬晴信による台湾偵察も失敗に終わった。
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