共和政フランスと反キリスト教運動とは? わかりやすく解説

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共和政フランスと反キリスト教運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「共和政フランスと反キリスト教運動」の解説

フランス革命期における非キリスト教化運動」、「九月虐殺」、「理性の祭典」、「最高存在の祭典」、「共和暦」、および「ローマ共和国 (18世紀)」も参照 国民議会制限選挙実施されたことでその目的終え1791年9月30日立法議会立法国民議会)に引き継がれた。この議員選挙では国民議会議員再選禁じられていたので、新人ばかりの顔ぶれとなった議会では、立憲君主政定着を図るフイヤン派とさらに民主化求めジロンド派対立した立法議会は、フランス国内の反革命運動支援する外国との開戦主張するジロンド派のほか、それとは逆に敗戦によって革命終結目論む国王周辺双方意向押され1992年4月20日には国境地帯亡命者とこれを支持する外国軍勢軍事行動をとることを可決した。これは事実上オーストリア対す宣戦布告となったフランス革命戦争)。これを受けてオーストリア同盟したプロイセン軍フランス侵入し将校大半亡命していたフランス軍弱体化しており、当初戦況フランスに不利であったが、危機感じたパリ民衆全国から駆け付けた義勇軍テュイルリー宮殿襲撃し国王監禁し立法議会に対して普通選挙制によって選ばれ議員から成る新し国会国民公会)の開設新憲法の制定約束させた(8月10日事件)。パリではこののち9月2日より「九月虐殺」と呼ばれる大量殺戮起こり、それは全国化して3名の司教200名以上の司祭憤激する暴徒によって殺害される惨事となった保守派逃亡しジロンド派多数派となった立法議会は、さらに領主貢租無償廃止宣誓拒否聖職者国外追放などを決めたが、過激化したパリ民衆ジロンド派への圧力強めた立法議会解散直前9月20日議会住民民事身分認証する役務教区教会から地方自治体移した結婚役所届け出ることが正規の手続きとされ、離婚可能性認められた。これにより、離婚認め世俗の法とそれを認めないカトリック教会の法は、婚姻に関する限り相容れないものとなった。なお、この日はヴァルミーの戦い国民主体とするフランス軍革命後、初め勝利した日でもあった。 国王の逃亡対外戦争開始など緊張のつづく政治局面において、人々聖職者対す視線厳しいものになっていったが、戸籍世俗化離婚に関する法令は「憲法教会」の存立基盤揺り動かす意味合いさえ有していた。教区簿冊、すなわち戸籍簿管理によってかろうじて自身立場維持していた憲法派・宣誓派の僧たちは、公務員的な役割さえ失うこととなったまた、離婚法制定カトリック禁じられていた離婚再婚可能にたばかりではなく僧侶結婚さえ合法化するものであり、教会法はもはや打ち捨てられたに等しかった1792年9月21日には男子普通選挙にもとづく国民公会開かれ同年9月22日には王政廃止宣言されフランス共和国成立しローマ教皇によって聖別されてきた王政否定された。1793年1月21日祖国対す裏切りの罪で裁判かけられ国王ルイ16世シャルル=アンリ・サンソンの手により、ついに断頭台の露と消えた。これは、アンシャン・レジームとの決別を示す最後象徴であったのと同時にヨーロッパの君主たちに対す挑戦でもあった。フランス軍オーストリア領ネーデルラント後年ベルギー占領英蘭両国脅威みなしたことから、1793年2月国民公会オランダイギリスに対して宣戦布告した2月24日には独身者対す一般兵義務課せられてフランス国民軍が成立したが、30規模新規徴兵農民武装反乱引き起こしたこののちマクシミリアン・ロベスピエール中心とするジャコバン派独裁開始されサン・キュロットたちの意向配慮した国民公会によって「国民の敵」に対す恐怖政治展開された。欧州孤立無援情勢となったフランスでは国内にいる共和国の敵をどうしても殲滅なければならない考えられ食糧危機きわめて深刻化していた経済事情もこれに拍車をかけた。 「恐怖政治」の時期には多く聖職者処刑され追放された。教会閉鎖され多く建造物破壊され美術品売り出された。こうした非キリスト教運動」(反キリスト運動キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人反宗教感情国民一般反教権主義とが結びついたもので、宣誓拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された。一方市民道徳人間性回復一環として理性」と「最高存在至高存在)」の崇拝導入された。これらは、「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称される1793年11月10日エベール派の主導により、ノートルダム聖堂で「哲学」の名において「理性の祭典」が執行された。この祭典以後、数か月わたってパリの各教会はじめ諸県主要都市において繰り広げられ無神論的でアナーキーな性格をもつものであった。これに対し1794年5月7日法令基づいて6月8日テュイルリー宮殿シャン・ド・マルス公園中心に最高存在の祭典」が挙行された。その中心となったのはロベスピエール派であり、理神論的性格をもつものであった。しかし、これらは宗教否定していながら実際に完璧な宗教儀式外観呈していたとも評される1793年11月国民公会によって定められ共和暦フランス革命暦)は、イエス・キリスト降誕紀元とする従来グレゴリウス暦に代わって採用された。革命前から暦の改変提案していたのはシルヴァン・マレシャル(英語版)だけだったが、共和暦1806年まで公式に使用された。各月等しく30日に、1日等しく10時間にすることもおこなわれた地名また、サンテチエンヌがアルムヴィル(武装せる都市)に、サントロペがエラクレス(ヘラクレス)に改称されるなど、宗教色の強い地名改名させられた。これらはいずれも、日常生活から宗教取り除く試みであった1793年11月コミューン活動家たちに連行されパリ大司教英語版)のジャン=バティスト=ジョゼフ・ゴベル(英語版)は国民公会演壇立って僧職離脱宣言し彼のミトラ(司教冠)は赤い「自由の帽子」に取り換えられた。ゴベルは、自分叙任状と十字架司教用の指輪壇上に置き、「革命成った以上は自由と平等宗教以外に国民的な宗教はもはや不要である」と述べ聖職者議員たちは次々とこれに従った僧職離脱拒否してキリスト教の信仰告白おこなった勇気ある議員は、アンリ・グレゴワール司教だけであった。これ以降聖職放棄地方へも急速に波及し憲法派僧すなわち教区2万6,542人のうち半数強にあたる1万3千人ないし1万5千人聖職放棄強制応じた。非教区僧を加えた聖職者全体1万6千人から2万人におよぶと考えられ教区聖職者アンシャン・レジーム期の4分の1落ち込み立憲教会体制はこうして内側から切り崩された。聖職放棄には妻帯強制をともなうことも少なくなく、僧侶独身は「カトリック偏見産物」とみなされ聖職者市民隔て障壁考えられ、およそ6千名の僧が教会法では許されない妻帯手を染めたこうした聖職放棄妻帯は、国家への忠誠宣誓以上に聖職者への抜きがたい不信感人々植え付けることとなったジョゼフ・フーシェによって1793年10月に発せられた墓地令では共同墓地から十字架さえ撤去され死者見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記され墓碑銘だけとなった死生観さえも世俗化され、以後の死と葬送私事領域移っていくこととなる。共同墓地教会から刈り出され十字架火刑となり、告解の場も焼却される哨舎転用された。 革命初期おこなわれた教会銀器装飾品祭具没収没収され由緒ある教会・修道院破壊され蔵書などが失われた鐘楼の鐘没収され祖国フランス防衛のための砲弾として改鋳された。聖人像はいたるところで首を刈られたり引きずりおろされたりするなど、イコノクラスム聖像破壊)やヴァンダリズム文化破壊)と称される民衆的暴力」が顕現した。神を冒涜するかのような火刑マスカラード仮装行列)がしばしば民衆熱狂誘い聖人像やローマ教皇かたどった人形火あぶりにされ、聖書ミサ典書祭壇布といった従来神聖視されてきた諸物焼かれ聖職放棄僧の叙任状と一緒に燃やされた。 こうした運動国民公会派遣した議員による主導のもとで行われたため、その徹底度合い派遣議員熱意地域性によるところがきわめて大きかった。すでに教会権威低下していた中部諸地域パリ周辺ノルマンディローヌ川沿岸地域などでは宗教的習慣がさらに弱まった一方伝統無視とそれに対す攻撃反発つのらせ聖職者以前にも増して崇敬されるようになった地域少なくなかった民衆運動ジャコバン派革命反革命勢力から守りぬく決意固めていたが、反革命動き顕著となった当初亡命貴族、そして民衆側から反革命運動激化拡大していった。公的役割を担うプロテスタント増加対す反発怖れ極端なキリスト教否定運動対す反発重税徴兵食糧や馬の徴用革命政府土地政策への不満などが、その要因であった1793年3月起こったヴァンデの反乱では、大多数市民教会祭壇を守るために立ち上がった当初ヴァンデ地方民衆反乱は3万人規模擁する大規模なもので1793年末にはほぼ鎮圧されたが、ヴァンデブルターニュノルマンディなどの西部地方では、その後1795年ころまで「シュアヌリ(英語版)(フクロウ党)」と呼ばれるゲリラ組織結成され地域住民からの支持受けて政府軍への抵抗続行した1794年7月テルミドールのクーデターによってジャコバン派独裁倒れ国民公会解散した1795年11月にはポール・バラスジョゼフ・フーシェラザール・カルノーらによる総裁政府発足した同年10月4日パリ王党派武装蜂起した際、砲兵隊率いて注目され若き将校ナポレオン・ボナパルトであったナポレオンは、鎮圧後国内軍司令官大抜擢され、以後バラス配下として活躍した1796年3月総裁政府ナポレオンイタリア方面軍司令官任命し第一次イタリア戦役開始された。ナポレオンの軍はイタリア北部席巻し、1796年5月10日ロディの戦いオーストリア軍破り15日にはミラノ入城して旧ミラノ公国領域制圧したミラノにはロンバルディア行政府設置され北イタリアでのパトリオット愛国派)やジャコビーノ(イタリア・ジャコバン派)の活動中心となった6月ナポレオン教皇国家北部のレガツィオーネ(イタリア語版)に侵入してボローニャフェラーラ占領しモデナ公国から分離したレッジョモデーナ支配してそこに「チスパダーナ連合」を結成させ、のちにチスパダーナ共和国建国させた。連戦連勝ナポレオン総裁政府からの自立強め、みずからの手イタリア政策推し進めて自身政治的立場強化した1797年6月にはロンバルディアチザルピーナ共和国樹立しチスパダーナ共和国をこれに併合している。当時ローマ教皇ピウス6世ナポレオン強く抵抗したが、彼は1798年教皇領全体占領してローマ共和国発足させた。ナポレオンの軍はさらにバチカン占領してピウス6世トスカーナ亡命したため、ここにローマにおける教皇世俗支配崩壊した

※この「共和政フランスと反キリスト教運動」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「共和政フランスと反キリスト教運動」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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