共和政フランスと反キリスト教運動
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「共和政フランスと反キリスト教運動」の解説
「フランス革命期における非キリスト教化運動」、「九月虐殺」、「理性の祭典」、「最高存在の祭典」、「共和暦」、および「ローマ共和国 (18世紀)」も参照 国民議会は制限選挙が実施されたことでその目的を終え、1791年9月30日、立法議会(立法国民議会)に引き継がれた。この議員の選挙では国民議会議員の再選が禁じられていたので、新人ばかりの顔ぶれとなった。議会では、立憲君主政の定着を図るフイヤン派とさらに民主化を求めるジロンド派が対立した。立法議会は、フランス国内の反革命運動を支援する外国との開戦を主張するジロンド派のほか、それとは逆に敗戦によって革命の終結を目論む国王周辺の双方の意向に押され、1992年4月20日には国境地帯の亡命者とこれを支持する外国の軍勢に軍事行動をとることを可決した。これは事実上、オーストリアに対する宣戦布告となった(フランス革命戦争)。これを受けてオーストリアと同盟したプロイセン軍がフランスに侵入し、将校の大半が亡命していたフランス軍は弱体化しており、当初の戦況はフランスに不利であったが、危機を感じたパリの民衆と全国から駆け付けた義勇軍がテュイルリー宮殿を襲撃して国王を監禁し、立法議会に対して普通選挙制によって選ばれた議員から成る新しい国会(国民公会)の開設と新憲法の制定を約束させた(8月10日事件)。パリではこののち、9月2日より「九月虐殺」と呼ばれる大量殺戮が起こり、それは全国化して3名の司教と200名以上の司祭が憤激する暴徒によって殺害される惨事となった。 保守派が逃亡してジロンド派が多数派となった立法議会は、さらに領主貢租の無償廃止や宣誓拒否聖職者の国外追放などを決めたが、過激化したパリの民衆はジロンド派への圧力を強めた。立法議会解散直前の9月20日、議会は住民の民事的身分を認証する役務を教区教会から地方自治体に移した。結婚は役所に届け出ることが正規の手続きとされ、離婚の可能性が認められた。これにより、離婚を認める世俗の法とそれを認めないカトリック教会の法は、婚姻に関する限り相容れないものとなった。なお、この日はヴァルミーの戦いで国民を主体とするフランス軍が革命後、初めて勝利した日でもあった。 国王の逃亡や対外戦争の開始など緊張のつづく政治局面において、人々の聖職者に対する視線も厳しいものになっていったが、戸籍の世俗化と離婚に関する法令は「憲法派教会」の存立基盤を揺り動かす意味合いさえ有していた。教区簿冊、すなわち戸籍簿の管理によってかろうじて自身の立場を維持していた憲法派・宣誓派の僧たちは、公務員的な役割さえ失うこととなった。また、離婚法の制定はカトリックで禁じられていた離婚・再婚を可能にしたばかりではなく、僧侶の結婚さえ合法化するものであり、教会法はもはや打ち捨てられたに等しかった。 1792年9月21日には男子普通選挙にもとづく国民公会が開かれ、同年9月22日には王政の廃止が宣言されてフランス共和国が成立し、ローマ教皇によって聖別されてきた王政は否定された。1793年1月21日、祖国に対する裏切りの罪で裁判にかけられた国王ルイ16世はシャルル=アンリ・サンソンの手により、ついに断頭台の露と消えた。これは、アンシャン・レジームとの決別を示す最後の象徴であったのと同時に、ヨーロッパの君主たちに対する挑戦でもあった。フランス軍のオーストリア領ネーデルラント(後年のベルギー)占領を英蘭両国が脅威とみなしたことから、1793年2月に国民公会はオランダとイギリスに対しても宣戦布告した。2月24日には独身者に対する一般兵役義務が課せられてフランス国民軍が成立したが、30万規模の新規徴兵は農民の武装反乱を引き起こした。こののち、マクシミリアン・ロベスピエールを中心とするジャコバン派の独裁が開始され、サン・キュロットたちの意向に配慮した国民公会によって「国民の敵」に対する恐怖政治が展開された。欧州で孤立無援の情勢となったフランスでは、国内にいる共和国の敵をどうしても殲滅しなければならないと考えられ、食糧危機がきわめて深刻化していた経済事情もこれに拍車をかけた。 「恐怖政治」の時期には多くの聖職者が処刑され、追放された。教会は閉鎖され、多くの建造物は破壊されて美術品も売りに出された。こうした「非キリスト教化運動」(反キリスト教運動、キリスト教否定運動)が特に激しかったのは、1793年秋から1794年春にかけてであった。この運動は、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義とが結びついたもので、宣誓を拒否する聖職者は「反革命的狂信者」と断罪された。一方、市民道徳と人間性回復の一環として「理性」と「最高存在(至高存在)」の崇拝が導入された。これらは、「革命的宗教」ないし「革命的諸宗教」とも称される。1793年11月10日、エベール派の主導により、ノートルダム聖堂で「哲学」の名において「理性の祭典」が執行された。この祭典は以後、数か月にわたってパリの各教会はじめ諸県の主要都市において繰り広げられ、無神論的でアナーキーな性格をもつものであった。これに対し、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿やシャン・ド・マルス公園を中心に「最高存在の祭典」が挙行された。その中心となったのはロベスピエール派であり、理神論的性格をもつものであった。しかし、これらは宗教を否定していながらも実際には完璧な宗教儀式の外観を呈していたとも評される。1793年11月、国民公会によって定められた共和暦(フランス革命暦)は、イエス・キリストの降誕を紀元とする従来のグレゴリウス暦に代わって採用された。革命前から暦の改変を提案していたのはシルヴァン・マレシャル(英語版)だけだったが、共和暦は1806年まで公式に使用された。各月を等しく30日に、1日を等しく10時間にすることもおこなわれた。地名もまた、サンテチエンヌがアルムヴィル(武装せる都市)に、サントロペがエラクレス(ヘラクレス)に改称されるなど、宗教色の強い地名は改名させられた。これらはいずれも、日常生活から宗教を取り除く試みであった。 1793年11月、コミューンの活動家たちに連行されたパリ大司教(英語版)のジャン=バティスト=ジョゼフ・ゴベル(英語版)は国民公会の演壇に立って僧職の離脱を宣言し、彼のミトラ(司教冠)は赤い「自由の帽子」に取り換えられた。ゴベルは、自分の叙任状と十字架、司教用の杖と指輪を壇上に置き、「革命が成った以上は自由と平等の宗教以外に国民的な宗教はもはや不要である」と述べ、聖職者議員たちは次々とこれに従った。僧職離脱を拒否してキリスト教の信仰告白をおこなった勇気ある議員は、アンリ・グレゴワール司教だけであった。これ以降、聖職放棄は地方へも急速に波及し、憲法派僧すなわち教区僧2万6,542人のうち半数強にあたる1万3千人ないし1万5千人が聖職放棄の強制に応じた。非教区僧を加えた聖職者全体は1万6千人から2万人におよぶと考えられ、教区聖職者はアンシャン・レジーム期の4分の1に落ち込み、立憲教会体制はこうして内側から切り崩された。聖職放棄には妻帯の強制をともなうことも少なくなく、僧侶の独身は「カトリック的偏見の産物」とみなされて聖職者と市民を隔てる障壁と考えられ、およそ6千名の僧が教会法では許されない妻帯に手を染めた。こうした聖職放棄や妻帯は、国家への忠誠宣誓以上に聖職者への抜きがたい不信感を人々に植え付けることとなった。 ジョゼフ・フーシェによって1793年10月に発せられた墓地令では共同墓地から十字架さえ撤去され、死者を見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記された墓碑銘だけとなった。死生観さえも世俗化され、以後の死と葬送は私事の領域へ移っていくこととなる。共同墓地や教会から刈り出された十字架は火刑の薪となり、告解の場も焼却されるか哨舎に転用された。 革命初期におこなわれた教会の銀器や装飾品・祭具の没収が没収され、由緒ある教会・修道院も破壊されて蔵書などが失われた。鐘楼の鐘も没収され、祖国フランスの防衛のための砲弾として改鋳された。聖人像はいたるところで首を刈られたり引きずりおろされたりするなど、イコノクラスム(聖像破壊)やヴァンダリズム(文化破壊)と称される「民衆的暴力」が顕現した。神を冒涜するかのような火刑やマスカラード(仮装行列)がしばしば民衆の熱狂を誘い、聖人像やローマ教皇をかたどった人形が火あぶりにされ、聖書やミサ典書、祭壇布といった従来神聖視されてきた諸物が焼かれ、聖職放棄僧の叙任状と一緒に燃やされた。 こうした運動は国民公会が派遣した議員による主導のもとで行われたため、その徹底の度合いは派遣議員の熱意や地域性によるところがきわめて大きかった。すでに教会の権威が低下していた中部の諸地域やパリ周辺、ノルマンディ、ローヌ川沿岸地域などでは宗教的習慣がさらに弱まった一方、伝統の無視とそれに対する攻撃に反発をつのらせ、聖職者が以前にも増して崇敬されるようになった地域も少なくなかった。民衆運動やジャコバン派は革命を反革命勢力から守りぬく決意を固めていたが、反革命の動きも顕著となった。当初は亡命貴族、そして民衆の側からも反革命運動が激化・拡大していった。公的役割を担うプロテスタントの増加に対する反発や怖れ、極端なキリスト教否定運動に対する反発、重税や徴兵、食糧や馬の徴用、革命政府の土地政策への不満などが、その要因であった。1793年3月に起こったヴァンデの反乱では、大多数の市民が教会の祭壇を守るために立ち上がった。当初、ヴァンデ地方の民衆反乱は3万人規模を擁する大規模なもので1793年末にはほぼ鎮圧されたが、ヴァンデ、ブルターニュ、ノルマンディなどの西部地方では、その後も1795年ころまで「シュアヌリ(英語版)(フクロウ党)」と呼ばれるゲリラ組織が結成され、地域住民からの支持を受けて政府軍への抵抗を続行した。 1794年7月のテルミドールのクーデターによってジャコバン派の独裁は倒れ、国民公会が解散した1795年11月にはポール・バラス、ジョゼフ・フーシェ、ラザール・カルノーらによる総裁政府が発足した。同年10月4日にパリの王党派が武装蜂起した際、砲兵隊を率いて注目された若き将校がナポレオン・ボナパルトであった。ナポレオンは、鎮圧後、国内軍司令官に大抜擢され、以後はバラスの配下として活躍した。1796年3月、総裁政府はナポレオンをイタリア方面軍司令官に任命し、第一次イタリア戦役が開始された。ナポレオンの軍はイタリア北部を席巻し、1796年5月10日のロディの戦いでオーストリア軍を破り、15日にはミラノに入城して旧ミラノ公国の領域を制圧した。ミラノにはロンバルディア行政府が設置され、北イタリアでのパトリオット(愛国派)やジャコビーノ(イタリア・ジャコバン派)の活動の中心となった。6月、ナポレオンは教皇国家北部のレガツィオーネ(イタリア語版)に侵入してボローニャとフェラーラを占領し、モデナ公国から分離したレッジョ、モデーナも支配してそこに「チスパダーナ連合」を結成させ、のちにチスパダーナ共和国を建国させた。連戦連勝のナポレオンは総裁政府からの自立を強め、みずからの手でイタリア政策を推し進めて自身の政治的立場を強化した。1797年6月にはロンバルディアにチザルピーナ共和国を樹立し、チスパダーナ共和国をこれに併合している。当時のローマ教皇ピウス6世はナポレオンに強く抵抗したが、彼は1798年に教皇領全体を占領してローマ共和国を発足させた。ナポレオンの軍はさらにバチカンを占領してピウス6世はトスカーナに亡命したため、ここにローマにおける教皇の世俗支配は崩壊した。
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