1794年5月
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「1794年5月の大西洋方面作戦」の記事における「1794年5月」の解説
「栄光の6月1日#6月1日の参戦艦」も参照 1794年の4月は、英仏海峡で両国の白熱した行動が繰り広げられた。ヴィラレーとハウが、来たるべき作戦に対して最後の準備をしていたからだった。フランスの護送船団がアメリカを発ったのは、予定より遅い4月2日だった。イギリスの護送船団は、ひと月後の5月2日に本国を目指してポーツマスを発った。ハウは自軍を総動員して、この船団をウェスタンアプローチまで護送し、5月5日にフリゲート艦ラトナ(英語版)とフェートンをブレストに接近させて、フランス艦隊の様子を探らせた。この2隻の報告によれば、ヴィラーレの艦隊はまだブレスト港にとどまっていた。
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1794年5月
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詳細は「1794年5月の大西洋方面作戦」を参照 ヴァンスタブルに護衛されたフランス護送船団は4月2日にバージニアを出発した。そしてハウは5月2日、ウェスタンアプローチズを行くイギリス船団を護衛し、かつフランス船団を阻止するために、全艦隊を率いてポーツマスから出帆した。ヴィラレーがまだブレストにいることを確認したハウは、2週間かけてビスケー湾で穀物輸送船団を捜した。そして、5月18日にブレストに戻り、ヴィラレーが前日に出航したことを知ったハウは大西洋に戻り、ビスケー湾のはるかかなたでヴィラレーを追跡した。この時、海上にはニエリのフランス戦隊とモンタギューのイギリス戦隊もいて、それぞれわずかながら戦果を上げていた。ニエリは何隻かのイギリス商船を拿捕し、またモンタギューはそのイギリス船を何隻か奪還していた。ニエリは5月の第2週、大西洋のかなたで穀物船団に出会った最初の戦隊となった。ニエリは船団を護送しつつヨーロッパ大陸との距離を狭める一方で、モンタギューはビスケー湾南部の方を探しまわっていたが、何の成果も得られなかった。 フランス主力艦隊もまた、ハウの追跡にもかかわらず、成果を上げていた。ヴィラレーは外海に出た初日にオランダ船団と遭遇して20隻を捕獲した。その翌週、ハウはフランスに拿捕されたオランダ船や、フランスのコルベットを捕獲し、それらを焼き払いつつ、フランス艦隊を追い続けた。5月25日に、ハウはヴィラレーの艦隊からはぐれた艦を見つけて追跡した。その艦オーダシュー(英語版)は、ハウをフランス艦隊の位置へ導く結果となった。ついにヴィラレーの艦隊を発見したハウは、5月28日、最も速い艦によって編成した遊撃戦隊を繰り出して、フランス艦隊の最後尾にいたレヴォリュシヨネールと何度にもわたって交戦させた。この1等級艦は6隻のイギリス艦に次々と攻撃されて大きな損害を受け、戦いの終わりの方には降伏するのではないかと思われた。日が落ちたため、イギリスとフランスの艦隊は離脱したが、レヴォリュシヨネールと、この艦が最後に交戦したイギリス艦オーディシャスとはなおも英仏両艦隊の後方にたたずんでいた。この2隻はその夜の間にそれぞれの艦隊を離れ、最終的に母港に戻った。この段階でヴィラレーは、護送船団の監視のために派遣していたフリゲートから、穀物護送船団が間近にいることを知らされた。そこで彼は、自分の艦隊を意図的に西に移動させ、ハウがそれにおびきよせられて、大事な船団から距離を置くようにした。 ヴィラレーの目論見にはまったハウは翌日も攻撃を続けた。しかし、フランス艦隊を二分するという彼の試みは、彼の艦隊の先頭艦である軍艦シーザー(英語版)が命令を遂行しなかったためうまくいかなかった。双方ともに大きな損害を被ったが、決定的な戦いとはならず、どちらも再び決着をつけることなしに離れて行った。しかしハウは戦闘の過程で風上側を取った、これはイギリス側には大きな利点だった。これによって、自分の望むときにヴィラレーを攻撃できるからである。3隻のフランス艦が損害を受けたために母港に送り返されたが、その損失はニエリが分遣した増援の戦隊が次の日に到着したことで埋め合わせられた。翌30日と翌々日の31日は、濃霧のために戦いは行われなかった。そして1794年6月1日、ついに霧が晴れたとき、両艦隊の戦列の間隔はわずか6マイル(10キロ)であり、ハウは決戦の覚悟を決めた。
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