護送船団の帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 07:30 UTC 版)
「1794年5月の大西洋方面作戦」の記事における「護送船団の帰国」の解説
モンタギュの戦隊は、6月の第1週いっぱいをかけて護送船団を探している間に、フランスの2つの戦隊にはさまれ、戻ってくるヴィラレーの艦隊を避けるために南へと移動した。その結果として、かなりの間フランスの大西洋岸からイギリス軍が姿を消した。護送船団は6月の第3週に無事にフランスに着き、モンタギュは手ぶらでイギリスに戻った。英仏両国とも、イギリスは唯一の大規模の戦闘に勝ったことで、フランスは護送船団に敵の指一本触れさせず帰国させたことで、自国の勝利を主張した。 この作戦により、英仏両国の海軍に顕著な影響がもたらされた。フランスはその後、ヨーロッパ北部の海域でイギリスと直接戦火を交えなくなり、その後23年間の大部分を、艦隊はブレストや他の港で過ごし、わずかな大型出撃部隊は地中海の軍事に向けられた。フランス海軍における内紛は士官たちの質的低下を招き、11年後のトラファルガーの海戦では、港に籠っていて、外海での戦闘を経なかったフランス艦隊の、戦術面での見通しが臆病でかつ未熟であったという結果を招いた。イギリスでは、この戦闘により士官に分裂が生じた。ハウが戦闘後に送った公文書の中で、信頼を置いていた一部士官が、参戦を躊躇したと批判しており、そのため彼らは、作戦の後に授与された褒賞の対象にはならなかった。この紛争による仲たがいは広がり、何名かの古参士官はそれによって辞任した。シーザーのモロイ艦長は最終的に軍法会議にかけられ、指揮官を支援しなかったかどで解雇された。
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