護郷隊の戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 08:08 UTC 版)
戦後30年頃から現在に至るまで様々な証言を辿れば、第一護郷隊の村上治夫隊長と第二護郷隊の岩波壽隊長の二人は他とは異なる一種強烈な印象を出会う人々の心に与えていたことがわかる。また戦後は二人とも、護郷隊で命を奪われた少年たちの遺族を訪ね歩き、あるいは本土での就業を支援するなど、元少年兵と交流を続けた。一方で、まだ幼い子どもや兄弟を護郷隊にとられた遺族や、激しいゲリラ戦の体罰や戦闘を経験した少年兵たちの心の傷は決して癒えることがなかった。住民が避難するのに必要な橋をあらかじめ破壊したこと、命令で故郷の家々を燃やしたこと、仲間の制裁を強いられるなどの少年兵への厳しい訓練や実際のゲリラ戦などの記憶は深い心の傷となり、総じて護郷隊についての長い沈黙をもたらした。また護郷隊の少年兵は正規軍ではないとみなされ戦後の補償対象からも外された。 護郷隊遺族の証言によると村上の最後の沖縄訪問は2002年で、80歳を超えた村上は、自ら建立した慰霊碑の前で堰を切ったように号泣したという。元少年たちと交流を続け、慰霊の樹木を送り、どれほど遺族から厳しい言葉を向けられても慰霊の訪問を続けた村上の、最後の沖縄の旅となった。
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