共和政ローマへの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 03:07 UTC 版)
彼らが共和政ローマ自体への攻撃を計画したのは紀元前105年からである。ローヌ川でキンブリ軍とローマ軍が衝突した。ローマ側の司令官はプロコンスルのクィントゥス・セルウィリウス・カエピオと執政官のグナエウス・マッリウス・マクシムスで、2人の連携がうまくいかず、キンブリ側はまず副官マルクス・アウレリウス・スカウルスの軍を破り、続いてアラウシオの戦いでカエピオとマキシムスの軍を壊滅させた。ローマ側はこの戦いで8万人が戦死し、予備の騎兵や非戦闘員を含めると実に11万2千人近くの人命を失った。 キンブリ族が今にも攻めてくるのではないかと、ローマはパニックに陥った。これを terror cimbricus(キンブリ族の恐怖)と呼ぶ。このため必死の対応策がとられた。ユグルタを破ったガイウス・マリウスが、これまでのローマの慣習に反して、執政官と軍最高司令官に5年間続けて選ばれることになった(紀元前104年 - 紀元前100年)。
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