共和政の終焉とソビエトによる占領
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「コンスタンティン・パッツ」の記事における「共和政の終焉とソビエトによる占領」の解説
第二次世界大戦が勃発すると、エストニアは中立を宣言した。しかし、1939年9月28日、ソビエト連邦からの圧力により蘇愛相互援助協定(エストニア語版)を調印した。これにより、赤軍はエストニアに軍事基地を建設できるようになった。1939年10月、パッツはハト派のユール・ウルオツ(英語版)を新しい首相に任命した。 1940年5月の時点では、パッツはソ連の意思は独ソ戦の勃発に備えてエストニアを従属させることに過ぎず、独ソ戦の戦力とする意図においてもエストニアの国体は保持されると考えていた。しかし、1940年6月、ソ連はエストニア政府に最後通牒を突きつけた。パッツは已むなくこれを受諾した。17日には赤軍による占領が開始された。 パッツは引き続き大統領の地位に留まることを許されたが、ソ連はパッツに首相ユール・ウルオツの更迭を要求した。パッツは後任にアウグスト・レイを指名する方針を示したが、アンドレイ・ジダーノフはこれを拒否、その代わりに政治には元来無縁であった共産主義者のヨハネス・バレス(英語版)を推薦した。パッツがこれを拒否すると、ソ連軍に護衛された共産主義者が大統領官邸前でデモを決行した。絶望的な状況の中でパッツはソ連の要求に屈し、21日、バレスを首相に指名した。事実上の操り人形として、パッツが署名させられたソビエト化のための大統領令は200通以上にのぼった。中でも大きな変更を強いられたのは、選挙法制であった。新体制のために議会選挙が行われたが、その結果招集された下院は、全議席が共産主義者で占められていた。1940年6月23日の戦勝記念日、パッツは「我々が成し遂げた最大の仕事は、エストニア民族の国家を作り上げたことである。そのために、我々は持てる限りの愛、忠誠、勤労、そして生命すらも捧げてきたのだ。」と声明した。29日、パッツは自宅に軟禁された。なお、6月上旬の段階で、パッツはドイツ大使に「エストニアがソビエト化されるとは思わない」との意見を表明していたことがわかっている。1940年7月21日にエストニア・ソビエト社会主義共和国が成立し、パッツは辞任を余儀なくされた。
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