共和政の終末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:46 UTC 版)
詳細は「ナチ党の権力掌握」を参照 シュライヒャーは友人のフランツ・フォン・パーペンを推薦し、6月1日にパーペン内閣が成立した。中央党は、党との約束を反故にして勝手に首相になったパーペンに憤慨しており、パーペンを除名処分にした。パーペン内閣は、首相以下大半のものが政党に所属しておらず、しかも、首相を含めて内閣10人中7人までが貴族出身という奇怪な内閣で、マスコミから「男爵内閣」と名付けられる始末だった。 国会に基盤のないパーペンは、ナチスに接近した。内閣成立の直後、ヒンデンブルク大統領に呼ばれたパーペンは、ヒトラーと共に3者会談を持った。この時の会談内容は不明だが、突撃隊禁止令の撤廃と国会解散、総選挙が約束されたことは確実だと言われている。この密約では、ナチスが内閣不信任案を提出しないことを交換条件にしていたもの、結局は9月には反故にされてしまう。また、ナチスは態度を翻して内閣を攻撃した。 6月16日からローザンヌ会議が開催され、賠償金は30億マルクに減額された上に状況によっては支払わなくてもよいという、事実上の賠償問題解決が決定された。しかしあくまでヴェルサイユ体制の解消(具体的には、ドイツが主張していたヴェルサイユ条約の第231条の削除のこと)を訴えたナチスはこの会議も失敗であるとして攻撃した。突撃隊の活動はますます活発になり、多数の死者を出す事件が続発した。 7月17日、パーペンはアルトナで発生した武力衝突事件を理由にプロイセン州政府を解体し、自ら国家弁務官となってプロイセン州を掌握し、いわゆるプロイセン・クーデタ(ドイツ語版)を起こす。既に、7月14日にパーペンとシュライヒャーはヒンデンブルク大統領に面会して大統領緊急令の発令の許可を得ており、アルトナでの事件そのものはパーペンの画策ではなかったにしても、この介入はあらかじめシナリオができていたものだった。この措置に対抗してプロイセン州は国事裁判所に、共和国政府によるプロイセン州の乗っ取りは憲法違反であるとの訴訟を起こした。10月には、共和国政府の措置は一部が違法であったと判断されたが、パーペンは従わなかった。これは高度な自治を許されていた各州に対する中央権力介入のはじまりとなった。 7月31日に行われた国会選挙でナチスはさらに躍進し、第一党となって230議席を獲得、同時に共産党も89議席と大幅に伸ばした。9月12日に開催された議会はすぐに解散され、11月16日にふたたび選挙が行われた。相次ぐ選挙はナチスの資金繰りを悪化させ、議席は196に減少したものの、相変わらず第一党の座を占め続けた。シュライヒャーはパーペンを辞職させ、12月3日に自ら首相となった。しかしこの頃からヒンデンブルクはパーペンを信頼するようになり、パーペンも裏切られた屈辱からシュライヒャー打倒を目指すようになる。 パーペンはヒトラーと接触し、自らの返り咲きを狙った。また、大統領の側近グループであるオスカー・フォン・ヒンデンブルクやオットー・マイスナーを取り込んで、ヒトラー嫌いのヒンデンブルクの理解を得ようとした。やがて国会基盤も持たず、大統領の信任も失ったシュライヒャーの政権運営は行き詰まり、1933年1月28日に辞職した。ヒンデンブルクはパーペンの再任を望んだが、ヒトラー首相以外ではナチスの支持を得られないと悟ったパーペンは拒否し、自ら副首相になるとして渋る大統領を説得した。
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