ポーランド統治
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「アンリ3世 (フランス王)」の記事における「ポーランド統治」の解説
1572年7月にポーランド・リトアニア共和国の国王ジグムント2世が嗣子なくして没すると、ヤギェウォ朝は断絶した。新国王はセイム(ポーランド議会)による選挙で決まることが宣言されたため、アンリは国王候補の一人となった。皇帝マクシミリアン2世の息子エルンスト大公、スウェーデン王ヨハン3世、ロシアのツァーリ・イヴァン4世らが対立候補となった。1572年8月にサン・バルテルミの虐殺が起きると、寛容な宗派体制をしく構想を実現しようとしていたポーランドのシュラフタ(貴族階級)の中には、フランス人候補に反対する意見も出た。フランス使節ジャン・ド・モンリュクの熱心な働きかけと、ジグムント2世の妹で次期国王の王妃に擬せられていたアンナがアンリを支持したこともあって、1573年5月9日にセイムはアンリをポーランド王に選出した。 セイムはアンリに王権に関する制限事項、およびアンリ個人との統治契約「パクタ・コンヴェンタ」の承認を要求し、アンリはこれらに署名した。アンリに提示された王権制限条項は以後、ポーランド選挙王が即位に際して必ず承認する決まりとなり、最初にこれを認めたアンリの名前にちなんで「ヘンリク条項」と呼ばれるようになった。アンリはポーランド最初の国王自由選挙に勝利したものの、貴族の権力が異常に強く王権の弱いポーランドの政治文化に違和感を抱き始めていた。さらに兄シャルル9世の結核が悪化したため、次期フランス王位継承者のアンリは出国を躊躇したが、ポーランド使節団に促されてフランスを発ち、1574年1月にポーランド入りした。しかし1574年2月に戴冠式にさいして開かれたセイムでは、アンリはカトリック勢力の支持を得て、宗教寛容体制を認める統治契約を無視しようとしたため、反感を買った。またアンリはポーランド貴族内の複雑な派閥関係に通じておらず、貴族たちは新王による官職任命が派閥間の勢力バランスを欠いたものだとして不満を抱いた。またサムエル・ズボロフスキという貴族が王の面前で刃傷沙汰を起こす事件が起きたが、アンリはズボロフスキを死刑にするのを躊躇ったため、優柔不断だと非難された。国際語のラテン語をほとんど話せない国王がポーランド人貴族には近づかず、連れてきたフランス人の側近ばかりと付き合うことも問題視された。アンリは28歳年上のアンナ王女との縁談にも気が乗らなかった。 1574年5月30日にフランスでシャルル9世が崩御し、その訃報は6月14日にクラクフへ届いた。既に出国の準備としてフランス人側近の殆どを本国へ帰していたアンリは、6月18日深夜、残った側近数人を伴い王宮を出奔した。国王の逃亡という大事件にポーランド貴族たちは愕然としたが、フランス人の国王によるそれまでの期待外れな振舞いを快く思っておらず今回の逃亡にかえってせいせいしたと思う貴族も少なくなかった。シュラフタは集会を開き、可能性は低いと知りつつアンリにポーランドへの帰国を要求し、1575年5月12日に帰国期限を設定した。そしてアンリが期限内に戻ることはなかったため、王位失効が宣せられたが、アンリは死ぬまでポーランド王の称号を名乗っていた。
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ポーランド統治
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「ヴワディスワフ3世 (ポーランド王)」の記事における「ポーランド統治」の解説
ヤギェウォ王家の長男として生まれたものの、前王朝ピャスト家の血をひく異母姉ヤドヴィガと、その許婚であるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世に王位継承の優先権があると主張する反対勢力が立ちはだかっていた。ヤドヴィガの死により反対派の構想は実現を見ず、父ヴワディスワフ2世とポーランドのマグナート(大貴族)の間で長子ヴワディスワフによる継承の合意がなされたものの、幼くして王位についたヴワディスワフ3世とその野心的な母ゾフィアには根強い反発があった。10歳で即位した国王は枢機卿ズビグニェフ・オレシニツキを筆頭とする宮廷の顧問団による補佐を受けた。 ヴワディスワフ3世の治世は当初から困難な状況におかれた。戴冠式では反対派のシュラフタの一人スピテク・ズ・メルシュティナによる妨害を受け、翌日に首都クラクフで行われた伝統的な民衆による新国王への歓呼の時間は、マゾフシェの聖俗の諸侯たちが場所を取り合って互いの従者たちを争わせたために台無しになった。また成長した国王が国事に関して発言しても、事実上の摂政であるオレシニツキ枢機卿はこれを無視し、この状態は1438年にピョトルクフにて召喚されたセイムで「国王が14歳に達したため親政を開始する」という宣言が出された後も変わらなかった。
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ポーランド統治
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「カジミェシュ4世 (ポーランド王)」の記事における「ポーランド統治」の解説
1447年、兄ヴワディスワフ3世の死後3年間にわたり空位だったポーランド王位を継承し、1454年にハプスブルク家のエリーザベトと結婚した。彼女は神聖ローマ帝国君主(ローマ王)アルブレヒト2世とボヘミア王家およびハンガリー王家の女子相続人であるエリーザベト・フォン・ルクセンブルクの遺児であったが、神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家の別系統のフリードリヒ3世の手中にあった。この結婚はヤギェウォ家のボヘミアとハンガリーの王位請求権を強化させることを狙ったものであったが、同時にカジミェシュ4世は皇帝位をめぐる争いに否応なく引き込まれることになった。 同年、カジミェシュ4世はドイツ騎士団に対抗するプロイセン同盟との同盟を結び、併合によってプロシアをポーランド領に組み込むことが決まった。しかしプロイセン同盟がドイツ騎士団への反乱を開始すると、騎士団は予想以上に頑強な抵抗を見せ、十三年戦争に発展した。カジミェシュ4世とプロイセン同盟はドイツ騎士団を撃破し、その拠点マルボルク城を陥落させた。第二次トルンの和約でドイツ騎士団は、王領プロイセンに対するポーランドの主権、プロシア公領に対するポーランドの宗主権を認めるに至った。1457年に義弟のハンガリー王兼ボヘミア王ラディスラウス・ポストゥムスが没すると、カジミェシュ4世夫妻の関心はラディスラウスの保っていた王冠を掌中にすることへと次第に移っていった。
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