ポーランド系ユダヤ人青年によるドイツ大使館員暗殺テロ
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「水晶の夜」の記事における「ポーランド系ユダヤ人青年によるドイツ大使館員暗殺テロ」の解説
センデル・グリュンシュパンの一家もこの時ドイツ政府によって追放されたポーランド系ユダヤ人家庭のひとつであった。センデルはパリにいる当時17歳の息子のヘルシェル・グリュンシュパンに惨状を訴えた。ヘルシェルはドイツ政府の非人道的なやり方に激昂し、ドイツ大使館員を暗殺して世界にユダヤ人の惨状を訴えることを企図した。 1938年11月7日、ヘルシェルは、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んだ。ヘルシェルは大使館員によって捕えられ、大使館前で警備していたフランス警察に引き渡された。ヘルシェルはフランス警察の尋問に対して「自分の家族がドイツ警察から非道の仕打ちを受けたと聞き、抗議のためにドイツ大使館員を殺害しようと決めました。ドイツで起きている事に対し、世界に訴えたかった。迫害されるユダヤ人に代わって復讐したかった」と語った。 ラートが撃たれたという事件の報を受けて、ナチス党の中でも狂信的な層は早くも11月8日にローテンブルク・アン・デア・フルダ(de)、ベブラ(de)、ゾントラなどのユダヤ人商店街やシナゴーグに対して反ユダヤ暴動を開始している。 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはゲオルク・マグヌス(de:Georg Magnus)教授と自らの侍医カール・ブラント博士の2人を11月8日早朝にパリに派遣し、ラートの治療にあたらせた。フランス在郷軍人たちもラートへの輸血に応じた。しかし結局ラートは11月9日午後4時30分に死去している。 ラートが死亡した11月9日にヒトラーはミュンヘンの市役所で催されていたミュンヘン一揆15周年記念式典に出席していた。その場に使いが入ってきてヒトラーにラートの死亡を耳打ちした。ヒトラーは隣に座っていたヨーゼフ・ゲッベルスの方へ向き直り、数分間何か話をした。この時ヒトラーは「SA(突撃隊)を解き放つべき時がやって来た」と告げたという。その後、ヒトラーは演説を中止して早々に会場を退席し、私邸に戻った。ラート死亡後にヒトラーが突然私邸にこもったのは恐らく自分が暴動に関与していないことを示すためのアリバイ作りと思われる。ヒトラーは事件後、暴動にやたら驚いた様子を見せていた。 ヒトラー退席後、代わってゲッベルスが出席者達に対して「すでに報復行動が11月8日にクーアヘッセンとマグデブルク=アンハルト管区で国家第一の敵であるユダヤ人に対して行われた」と宣言した。これを聞いた聴衆は「党が示威行動の発起人として前面に出ることはないにしても、実際には党がそれらを組織し、最後までやり通すのだろう」という印象を持ったという(ヴァルター・ブーフのヘルマン・ゲーリングへの報告書)。 集会は午後10時30分に解散となり、大管区指導者や突撃隊指導者たちはミュンヘンから電話で暴動に関する多少なりとも具体的な指示をそれぞれの管轄地区執行部に下した。
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