ポーランド継承問題
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「ポーランド継承戦争」の記事における「ポーランド継承問題」の解説
1733年2月にポーランド王アウグスト2世(兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世)が崩御すると、ポーランド貴族(シュラフタ)出身のスタニスワフ・レシチニスキが王位を請求し、娘婿にあたるフランス王ルイ15世はこれを支持した。スタニスワフは大北方戦争中の1704年から1709年まで、スウェーデンによって傀儡のポーランド王として擁立されていた(スタニスワフ1世)。 しかし、アウグスト2世の嫡出子であるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世もまた王位を請求し、神聖ローマ皇帝カール6世やロシア帝国のアンナ女帝の支持を得ていた。 ポーランド議会(セイム)ではスタニスワフがシュラフタ多数の賛成を得て即位したが、一部の反対派はザクセン選帝侯をポーランド王アウグスト3世と宣言した。このため、ポーランドの内戦は関係国を巻き込んで戦争へと発展した。 スタニスワフ・レシチニスキ、1727年画 ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世、1730年画
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ポーランド継承問題
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「ポーランド・リトアニア・モスクワ共和国」の記事における「ポーランド継承問題」の解説
最初に三国合同が提議されたのは、16世紀にポーランド国王ジグムント2世アウグストが没してヤギェウォ朝が断絶し、国王自由選挙が実質的に始まった際である。ロシアのイヴァン4世は、マグナートの勢力伸長に反対するポーランドの下級・中級貴族にかなりの支援をつぎ込み、有力な候補となっていた。ポーランド空位時代の間に2回にわたりポーランドの外交使節がモスクワを訪れ協議を行ったが、リヴォニア戦争以来の両国間の敵対関係や「ロシアの位を他のヨーロッパ諸国と同等に下げるつもりも、ポーランドに王冠を乞うこともない」というイヴァン4世の方針もあって失敗に終わった。それでもなおポーランド国内ではイヴァン4世を国王に求める声は強かったが、1574年にポーランドを訪れたロシア使節がポーランド王位について交渉する命令も権限も与えられていなかった。こうしたロシアの態度に失望した一人であるヤン・シェラコフスキー(ポーランド語版)はセイムにおいて「モスクワ大公は最も国王にふさわしい人物であろうが、彼が沈黙を貫くゆえに、我々は彼を忘れなければならず、また再び彼に求めるようなこともするべきではない。」と演説した。結局1576年にトランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーンがステファン・バートリとしてポーランド王に即位し、ポーランドとロシアとの合同は一旦立ち消えとなった。
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