ヨガイラとの衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/04 14:49 UTC 版)
「ヴワディスワフ・オポルチク」の記事における「ヨガイラとの衝突」の解説
1382年9月10日、ヴワディスワフの庇護者であったハンガリー王兼ポーランド王ラヨシュ1世が崩御した。ヴワディスワフは最初は亡き王の娘達を推していたものの、やがて自らポーランド王位の後継候補に名乗りを挙げた。しかしポーランド貴族達は彼を支持せず、ラヨシュ1世の末娘ヤドヴィガを即位させた上で、彼女にドイツ人の許婚(オーストリア公子ヴィルヘルム)との婚約を破棄させた。ヤドヴィガの夫という形で、プウォツク公シェモヴィト4世をポーランド王にしようと考えたのである。その後、シェモヴィト4世に代わってリトアニア大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世ヤギェウォ)が王に選ばれた。 古い歴史文献では記述に矛盾があるが、ヴワディスワフは当初、ヨガイラのポーランド統治を支持していたと言われる。一部の歴史家はヴワディスワフが、新王がキリスト教(カトリック)に改宗した際の洗礼の代父を務めたと考えている。しかし、両者の協調関係は早期に破綻した。1388年、ヨガイラがヴワディスワフからブィドゴシュチュの支配権を取り上げると、ヴワディスワフはヴァヴェル城を奪取して王を捕まえることを目論んだクーデターを指揮したからである。総代官(スタロスタ)のセンジヴイ・パウカに敗れて捕えられたヴワディスワフはヨガイラに降伏を認め、2度とポーランド王位を要求しないことを誓わされた。また、ヨガイラはヴワディスワフの甥であるヤン・クロピドウォのグニェズノ大司教昇任を阻んだ。 両者のさらなる軋轢は1391年5月、ヴワディスワフがズウォトゥフをドイツ騎士団に譲渡する約束をしたことで起きた。ヴワディスワフがドイツ騎士団と国境を接する地域を領有しているのを危険視していたヨガイラは、彼がポーランド王国内に持つ領土を全て取り上げた。ヴワディスワフは王命に服することを選び、1392年に当該地域をポーランド王国に返還した。但し、ヴワディスワフへの忠誠心がきわめて強いボレスワヴィエツは例外で、同市だけは彼の死後にポーランド王国に再併合されることになった。
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