ヨガイラとの争いとは? わかりやすく解説

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ヨガイラとの争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:39 UTC 版)

アンドリュス・アルギルダイティス」の記事における「ヨガイラとの争い」の解説

アルギルダス1377年に死ぬと、その最年長息子であるアンドリュスは、アルギルダス後継定めた異母弟ヨガイラ対立したヨガイラ大公位を継いだ時点では叔父ケーストゥティスから強力な支持得ていた。アンドリュスはポラツク公国モスクワ大公国リヴォニア騎士団からなるリトアニア同盟組織してヨガイラとその支持者対抗したモスクワ軍は1379年リトアニア大公国東部地域攻撃した。アンドリュスの同母弟ドミトリユスはアンドリュスの味方であり、トルブチェフスクスタロドゥーブロシア軍から防衛することはしなかった。モスクワ軍は占領地域に留まる事はせず、モスクワ退却した。このとき、アンドリュスとドミトリユスもモスクワ軍に随行したヨガイラ1379年9月29日ドイツ騎士団との間に10年年限のついた和平条約を結び、さらに1380年2月27日リヴォニア騎士団とも和約結んで、アンドリュスの結んだリトアニア同盟切りくずしに成功したヨガイラはさらにジョチ・ウルス権力者ママイリャザン公国当主オレーグとも協力関係入り、アンドリュスに対す包囲網築いた1380年、アンドリュスとドミトリユスはモスクワジョチ・ウルスとの間で行われたクリコヴォの戦い参加したヨガイラ軍隊戦場へ到着遅れたため、ジョチ・ウルス軍は大敗喫した1381年ヨガイラはアンドリュスのかつての領国だったポラツク公国を、自分忠実なスキルガイラ与えようとした。スキルガイラ反抗するポラツク包囲していたとき、叔父ケーストゥティスヨガイラから権力奪取すべくリトアニアの内戦引き起こしヨガイラからリトアニア大公地位奪ったポラツク人々は、アンドリュスを再びポラツク公に据えることを決めたケーストゥティス対し自発的に臣従した。1381年から1385年にかけ、アンドリュスの消息伝え史料残っていない。おそらく、アンドリュスはヨガイラケーストゥティスヴィータウタス親子争い決着がつくのを待っていたと思われるヨガイラヴィータウタス1384年に一応の和睦結んだ1385年10月10日、アンドリュスはリヴォニア騎士団との講和条約調印し、彼は騎士団臣従する代わりにヴィータウタスその他の敵対者から守ってもらうことになった。この和約によれば、アンドリュスは騎士団封臣となり、ポラツク封土として授けられることになっていた。ヨガイラポーランド赴いてクレヴォの合同条約に関する交渉行っていたあいだ、アンドリュスは再びヨガイラに対して兵を挙げよう企んだ1386年、アンドリュスはポラツク南東部攻撃した。アンドリュスの挙兵は、リトアニア大公国中心部リトアニア公国攻撃していたリヴォニア騎士団、そしてアルギルダススモレンスク公国奪われ、ムシチスラウを攻撃していたスモレンスク公スヴャトスラフ支持得た

※この「ヨガイラとの争い」の解説は、「アンドリュス・アルギルダイティス」の解説の一部です。
「ヨガイラとの争い」を含む「アンドリュス・アルギルダイティス」の記事については、「アンドリュス・アルギルダイティス」の概要を参照ください。

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