ヨガイラとの争い
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「アンドリュス・アルギルダイティス」の記事における「ヨガイラとの争い」の解説
アルギルダスが1377年に死ぬと、その最年長の息子であるアンドリュスは、アルギルダスが後継に定めた異母弟ヨガイラと対立した。ヨガイラは大公位を継いだ時点では叔父のケーストゥティスから強力な支持を得ていた。アンドリュスはポラツク公国、モスクワ大公国、リヴォニア騎士団からなる反リトアニア同盟を組織して、ヨガイラとその支持者に対抗した。モスクワ軍は1379年にリトアニア大公国の東部地域を攻撃した。アンドリュスの同母弟ドミトリユスはアンドリュスの味方であり、トルブチェフスクとスタロドゥーブをロシア軍から防衛することはしなかった。モスクワ軍は占領地域に留まる事はせず、モスクワに退却した。このとき、アンドリュスとドミトリユスもモスクワ軍に随行した。ヨガイラは1379年9月29日、ドイツ騎士団との間に10年の年限のついた和平条約を結び、さらに1380年2月27日にリヴォニア騎士団とも和約を結んで、アンドリュスの結んだ反リトアニア同盟の切りくずしに成功した。ヨガイラはさらにジョチ・ウルスの権力者ママイ、リャザン公国の当主オレーグとも協力関係に入り、アンドリュスに対する包囲網を築いた。1380年、アンドリュスとドミトリユスはモスクワとジョチ・ウルスとの間で行われたクリコヴォの戦いに参加した。ヨガイラの軍隊は戦場への到着が遅れたため、ジョチ・ウルス軍は大敗を喫した。 1381年、ヨガイラはアンドリュスのかつての領国だったポラツク公国を、自分に忠実な弟スキルガイラに与えようとした。スキルガイラが反抗するポラツクを包囲していたとき、叔父のケーストゥティスはヨガイラから権力を奪取すべくリトアニアの内戦を引き起こし、ヨガイラからリトアニア大公の地位を奪った。ポラツクの人々は、アンドリュスを再びポラツク公に据えることを決めたケーストゥティスに対し、自発的に臣従した。1381年から1385年にかけ、アンドリュスの消息を伝える史料は残っていない。おそらく、アンドリュスはヨガイラとケーストゥティス、ヴィータウタス親子の争いに決着がつくのを待っていたと思われる。ヨガイラとヴィータウタスは1384年に一応の和睦を結んだ。1385年10月10日、アンドリュスはリヴォニア騎士団との講和条約に調印し、彼は騎士団に臣従する代わりに、ヴィータウタスやその他の敵対者から守ってもらうことになった。この和約によれば、アンドリュスは騎士団の封臣となり、ポラツクを封土として授けられることになっていた。ヨガイラがポーランドに赴いてクレヴォの合同条約に関する交渉を行っていたあいだ、アンドリュスは再びヨガイラに対して兵を挙げようと企んだ。1386年、アンドリュスはポラツクの南東部を攻撃した。アンドリュスの挙兵は、リトアニア大公国の中心部リトアニア公国を攻撃していたリヴォニア騎士団、そしてアルギルダスにスモレンスク公国を奪われ、ムシチスラウを攻撃していたスモレンスク公スヴャトスラフの支持を得た。
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