国王の寵愛の翳り
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1670年1月30日、モリエールとその劇団はサン=ジェルマン=アン=レー城に赴き、そこで開かれている国王ルイ14世の演劇祝祭において、同年2月4日から数回にわたって『豪勢な恋人たち』を披露した。披露されたのはこの機会のみで、他の作品のようにパレ・ロワイヤルで市民向けに公演は行われていない。それどころか、この作品についてはラ・グランジュの『帳簿』において一切言及されておらず、モリエールの生前にはテキストも出版されていない。テキストが初めて出版されたのは、1682年に刊行された『モリエール全集』においてである。市民向けに公演が行われなかったのは、もともとこの作品が宮廷用に作られたことに加えて、パレ・ロワイヤルがひどく老朽化していたことが理由として挙げられる。本作は大がかりな機械仕掛けが欠かせないから、そもそもそのような芝居を上演できないパレ・ロワイヤルでは出来るはずもない演目だったのである。 10月14日、国王の招きを受けて赴いたシャンボール宮殿にて、国王をはじめとする大勢の貴族たちを前にして、『町人貴族』の初演が行われた。モリエール最後のコメディ=バレエである。舞踊が大好きで、かつては自分も舞台に立っていた国王はこの作品を気に入ったらしく、16日、20日、21日と3度も再演させ、11月にサン=ジェルマン=アン=レー城に移ってからも、何度もこの作品を見たがったという記録が残っている。パリ市民向けに初演が行われたのは、11月23日のことであった。 この作品の上演のちょうど1年前、1669年11月にオスマン帝国の使節ソリマン・アガがパリにやってきた。国王ルイ14世は彼を歓待するために正装で出迎え、豪華な饗宴を開いたが、ソリマンは感動した素振りを見せるどころか、オスマン皇帝と比べて彼を見下すような発言をしたため、当然ながら国王はこの無礼な使節に激怒した。この無礼な使節を笑いものにするために、トルコ風の儀式をこの作品の中に挿入するように命じたという。この時期にはちょうどトルコ趣味が流行しており、モリエールとしてもちょうどよかったのであろう。 1671年1月17日、テュイルリー宮殿において『プシシェ』の初演が行われた。非常に派手な舞台演出を盛り込んだ作品であったため、宮廷でも大絶賛されたが、パリ市民たちに向けた公演でも大成功を収めた。パレ・ロワイヤルで本作を上演するために、莫大な改築費を投じているところを見ると、モリエールも成功を確信していたのかもしれない。 5月24日、『スカパンの悪だくみ』の上演がパレ・ロワイヤルにて開始された。この作品は今日にいおいてはモリエールの作品の中でも上演回数の多いものであるが、初演から客足は伸びず、モリエールの生前中はわずか18回しか上演されなかった。当時の観客たちは、歌や踊りがふんだんに用いられている『町人貴族』の方を好んだようである。 モリエールの側近、ならびに劇団の会計係であったラ・グランジュの『帳簿』によれば、『袋のなかのゴルジビュス』なる作品を1661,3,4年の3回にわたって上演されたことが記録されている。これを発展させたものが本作であると思われる。随所に他の作家からの借用が見られるが、シラノ・ド・ベルジュラックの『愚弄された衒学者』からの拝借が特に目立つ。他の作家の作品からの借用が日常茶飯事的に行われていた時代であるとはいえ、あまりに露骨であったので問題となった。 12月2日、『エスカルバニャス伯爵夫人』の初演が行われた。フィリップ・ドルレアンとエリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールの結婚を祝う催し「バレエのバレエ(Ballet des Ballet)」がサン=ジェルマン=アン=レー城にて開かれた際に、催しに興を添えるために披露された作品である。モリエールはこの催しのためにもう1作品書いたようだが、タイトルもテキストも伝わっていない。 1672年2月17日、初めての恋人であり、盛名座結成以後絶えず苦楽を共にしてきたマドレーヌ・ベジャールが死去した。ラ・グランジュの「帳簿」によれば、マドレーヌが息を引き取ったとき、モリエールとその一同はサン=ジェルマン=アン=レー城にて『エスカルバニャス伯爵夫人』を演じていたとのことである。モリエールは彼女の死に目に立ち会うことはできなかった。彼女の死は、当然モリエールに大きな打撃を与えた。 3月11日、『女学者』の初演が行われた。この作品はマドレーヌの葬儀が済んでまもなく完成されたもので、三一致の法則を忠実に守っており、モリエール作品の中では『人間嫌い』とともに形式的な完成度が非常に高い作品である。 この頃、国王の寵愛がモリエールからジャン=バティスト・リュリに移っていった。モリエールは当初、リュリに対して庇護者のような立場にあり、彼と協力しておよそ10本のコメディ=バレエを制作してきたが、次第に頭角を現してきたリュリはさらにその野心を膨らませ、言葉巧みに国王に取り入り、王室音楽アカデミーの特権を手に入れたのであった。その結果、音楽オペラなどの上演権は彼が独占することとなり、あまつさえ、パレ・ロワイヤルでの戯曲の公演においては6人の音楽家と12本のヴァイオリンしか使用できないという制限を彼が設けたおかげで、モリエールは多大な迷惑を被った。 この年、オランダ侵略戦争が始まった。モリエールは「(やがて)凱旋帰国する国王陛下の崇高な偉業を讃えるため」として、『病は気から』の制作を開始した。相変わらず『プシシェ』は好成績を収めているので、比較的のんびりとした気持ちで制作に取り掛かることが出来たようである。 1673年になると、国王の寵愛は決定的にリュリに移ったが、劇団は貴族からの招きによる出張公演が多く、『亭主学校』の再演を久々に行うなど活発に動き回っていた。国王の御前で上演するはずだった『病は気から』は結局その機会に恵まれなかった。上記のような事情からリュリとは不仲になっていたため、作曲はマルカントワーヌ・シャルパンティエに依頼することとなった。
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