国王の寵愛の翳りとは? わかりやすく解説

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国王の寵愛の翳り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:46 UTC 版)

モリエール」の記事における「国王の寵愛の翳り」の解説

1670年1月30日モリエールとその劇団サン=ジェルマン=アン=レー城に赴き、そこで開かれている国王ルイ14世演劇祝祭において、同年2月4日から数回わたって豪勢な恋人たち』を披露した披露されたのはこの機会のみで、他の作品のようにパレ・ロワイヤル市民向けに公演行われていない。それどころか、この作品についてはラ・グランジュの『帳簿』において一切言及されておらず、モリエール生前にはテキスト出版されていないテキスト初め出版されたのは、1682年刊行された『モリエール全集』においてである。市民向けに公演が行われなかったのは、もともとこの作品宮廷用に作られたことに加えてパレ・ロワイヤルがひどく老朽化していたことが理由として挙げられる本作大がかり機械仕掛け欠かせないから、そもそもそのような芝居上演できないパレ・ロワイヤルでは出来るはずもない演目だったのである10月14日国王招き受けて赴いたシャンボール宮殿にて、国王はじめとする大勢貴族たちを前にして、『町人貴族』の初演が行われた。モリエール最後コメディバレエである。舞踊が大好きで、かつては自分舞台立っていた国王はこの作品気に入ったらしく、16日20日21日3度再演させ、11月サン=ジェルマン=アン=レー城移ってからも、何度もこの作品見たがったという記録残っている。パリ市民向けに初演が行われたのは、11月23日のことであった。 この作品の上のちょう1年前、1669年11月オスマン帝国使節ソリマン・アガがパリにやってきた。国王ルイ14世は彼を歓待するために正装出迎え豪華な饗宴開いたが、ソリマンは感動した素振り見せどころかオスマン皇帝比べて彼を見下すような発言したため当然ながら国王はこの無礼な使節激怒した。この無礼な使節笑いものにするために、トルコ風儀式をこの作品中に挿入するように命じたという。この時期はちょうトルコ趣味流行しており、モリエールとしてもちょうどよかったであろう1671年1月17日テュイルリー宮殿において『プシシェ』の初演が行われた。非常に派手な舞台演出盛り込んだ作品であったため、宮廷でも大絶賛されたが、パリ市民たちに向けた公演でも大成功収めたパレ・ロワイヤル本作上演するために、莫大な改築費を投じているところを見ると、モリエール成功確信していたのかもしれない5月24日、『スカパンの悪だくみの上演がパレ・ロワイヤルにて開始された。この作品今日にいおいてはモリエール作品中でも上演回数の多いものであるが、初演から客足伸びず、モリエール生前中はわずか18回し上演されなかった。当時観客たちは、歌や踊りふんだんに用いられている『町人貴族』の方を好んだようである。 モリエール側近ならびに劇団会計係であったラ・グランジュの『帳簿によれば、『袋のなかのゴルジビュス』なる作品を1661,3,4年の3回わたって上演されたことが記録されている。これを発展させたものが本作であると思われる随所に他の作家からの借用見られるが、シラノ・ド・ベルジュラックの『愚弄された衒学者』からの拝借が特に目立つ。他の作家作品からの借用日常茶飯事的に行われていた時代であるとはいえあまりに露骨であったので問題となった12月2日、『エスカルバニャス伯爵夫人』の初演が行われた。フィリップ・ドルレアンエリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール結婚を祝う催しバレエバレエ(Ballet des Ballet)」がサン=ジェルマン=アン=レー城にて開かれた際に、催し興を添えるために披露され作品である。モリエールはこの催しのためにもう1作品書いたようだが、タイトルテキスト伝わっていない。 1672年2月17日初めての恋人であり、盛名座結成以後絶え苦楽を共にしてきたマドレーヌ・ベジャール死去したラ・グランジュの「帳簿によればマドレーヌ息を引き取ったとき、モリエールとその一同サン=ジェルマン=アン=レー城にて『エスカルバニャス伯爵夫人』を演じていたとのことである。モリエールは彼女の死に目立ち会うことはできなかった。彼女の死は、当然モリエール大きな打撃与えた3月11日、『女学者』の初演が行われた。この作品マドレーヌ葬儀済んでまもなく完成されたもので、三一致の法則忠実に守っており、モリエール作品の中では『人間嫌いとともに形式的な完成度が非常に高い作品である。 この頃国王寵愛モリエールからジャン=バティスト・リュリ移っていった。モリエール当初リュリに対して庇護者のような立場にあり、彼と協力しておよそ10本のコメディバレエ制作してきたが、次第頭角現してきたリュリはさらにその野心膨らませ言葉巧み国王取り入り王室音楽アカデミー特権手に入れたであったその結果音楽オペラなどの上は彼が独占することとなり、あまつさえパレ・ロワイヤルでの戯曲公演においては6人の音楽家12本のヴァイオリンしか使用できないという制限を彼が設けたおかげでモリエール多大な迷惑を被ったこの年オランダ侵略戦争始まったモリエールは「(やがて)凱旋帰国する国王陛下崇高な偉業讃えるため」として、『病は気から』の制作開始した。相変わらず『プシシェ』は好成績収めているので、比較的のんびりとした気持ち制作取り掛かることが出来たようである。 1673年になると、国王寵愛決定的にリュリ移ったが、劇団貴族からの招きによる出張公演多く、『亭主学校』の再演久々に行うなど活発に動き回っていた。国王御前上演するはずだった『病は気から』は結局その機会恵まれなかった。上記のような事情からリュリとは不仲になっていたため、作曲マルカントワーヌ・シャルパンティエ依頼することとなった

※この「国王の寵愛の翳り」の解説は、「モリエール」の解説の一部です。
「国王の寵愛の翳り」を含む「モリエール」の記事については、「モリエール」の概要を参照ください。

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