クーデターと退位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 07:10 UTC 版)
1843年、ギリシャからバイエルンの軍隊が撤退すると、ただちにギリシャ軍によるクーデターが起き、憲法の制定を認めさせられた。憲法により設置された議会によって、さらに英国艦隊がアテネ近郊のピレウス港を封鎖する事件が発生すると、国王の権威はさらに弱まった。 キリスト教国によって過去の東ローマ帝国を再建しようとする夢(メガリ・イデア)を持っていたオソンは、1854年にクリミア戦争が勃発すると、オスマン帝国に対して宣戦布告したが、結果は不首尾に終わった。1861年にはディロシオス(el)と名乗る学生が王妃を暗殺しようとしたが、彼の行動は民衆から歓呼で迎えられた。1862年に再びクーデターが起こると、暫定政府は国民議会の開催を決め、国王夫妻はイギリス艦でギリシャを出国してバイエルンへと向かった。
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