クーデターと大統領とは? わかりやすく解説

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クーデターと大統領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:38 UTC 版)

エフライン・リオス・モント」の記事における「クーデターと大統領」の解説

1982年3月大統領選 (1982 Guatemalan general election) では、現大統領であるロメオ・ルカス・ガルシア防衛相だったアンヘル・アニバル・ゲバラ (Ángel Aníbal Guevara) の勝利発表されたが、敗北した右派国民解放運動選挙に不正があったと批判した3月23日若手将校によってクーデターによってルカス・ガルシア政権倒され選挙無効とされた。 クーデター背後には1979年ニカラグア革命のような左翼による革命グアテマラ起こさないためにゲリラ対決する強い人物求めていたアメリカ合衆国意図があった。 クーデターでは3人からなる軍事評議会フンタ)が成立した。リオス・モントはそのひとりだったが、同年6月に他の評議員排除して大統領就任した。リオス・モントは戒厳令敷き左翼反乱勢力対す軍事行動起こした政治手法は、親米路線を採り外国からの軍事援助引き出しつつ、グアテマラ国民革命連合(URNG)などの反政府ゲリラ勢力への弾圧強めた軍部民間自衛パトロール(PAC)を動員してゲリラ鎮圧しようとしたが、むしろ暴力増大させるだけの結果終わった反政府勢力もとよりマヤ系の先住民襲撃対象となり、多数丸ごと焼きわられるなどの虐殺が行われた。グアテマラ内戦30年近く断続的に続いていたが、約20万人推測される死者行方不明者数の半分近くがリオス・モントが政権握っていた1年あまりの時期集中するカトリック教会対す宗教的な迫害行った先住民対す聖職者活動ゲリラ情報網になっているとされたため、多く聖職者国外に去らなければならなかった。礼拝所修道院ほかの教会財産焼かれたり、軍によって押収占拠された。リオス・モント時代教会政府に対してより批判的になった:1611983年3月ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世グアテマラ訪問するにあたって死刑宣告されゲリラ6名を寛容に扱うように要請したが、リオス・モントはこれを無視して教皇訪問3日前に死刑執行した:161一方でリオス・モントは汚職取り締まり農地改革計画立てた。 翌1983年8月、リオス・モントの防衛相であったオスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレス再度クーデター起こしたため失脚した

※この「クーデターと大統領」の解説は、「エフライン・リオス・モント」の解説の一部です。
「クーデターと大統領」を含む「エフライン・リオス・モント」の記事については、「エフライン・リオス・モント」の概要を参照ください。

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